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「マスクはない方がいいでしょうか」小山田圭吾と“最初に交わした挨拶”

検証ルポ「小山田圭吾事件」#3

中原 一歩
ニュース 社会 映画

※連載第1回(「コーネリアス」にも「渋谷系」にも興味がない私が小山田圭吾にインタビューした理由)から読む

狙った人物に会える時の高揚感

 かつて「トップ屋」と呼ばれたスクープ記者でなくとも、取材をして書くことを生業にしている者であれば、世間を騒がせた渦中の人物に自分だけが接触できた時の高揚感は言葉にできないものがある。無論、その時点では「狩り」は成功していない。それでも、自分が狙った人物に会えると分かった時の胸の高鳴りは言葉にならないものがある。

 小山田圭吾氏と会えると分かった時、まさにその心境だった。

 本来、小山田氏側からすると、どこの馬の骨かも分からないフリーライターには絶対に会いたくはない心境だったはずだ。「何を書かれるか分からない」という計り知れない恐怖があったに違いない。

 しかし、水と油のように混じり合うことのない両者が、何の因果か思惑が一致し、希に惹かれあう場合がある。渦中の人物が「本当のことを話したい」という差し迫った状況に追い込まれた時だが、そんな「幸運」は滅多にめぐってこない。しかし、たとえその確率が1000回に1回だろうが、ダメ元でコンタクトをとり続ける根気がなければフリーライターの仕事は成立しないのだ。

 無論、相手の言い分をそのまま掲載するようなことはない。取材者として難しいのは、「利用される」というリスクもあるということだ。小山田氏に対する私の興味は、「なぜ自ら障がい者イジメを告白し、二十数年後にその事実を否定したか」である。だから、申し訳ないが、私が小山田氏に会うモチベーションは最初から最後まで「小山田君の汚名をそそぎたい」というコーネリアスファンの心理とは全く別物だった。

 後から本人から聞いたのだが、この騒動が起こった後、複数の週刊誌を含むメディアが自宅に押しかけ、一時はホテルを転々としていた時期もあったという。

1回目は「丸腰」で待ち合わせ場所へ

 結局、都合2回、私は小山田氏本人と直接会っている。最初に接触を試みた時の名目は「打ち合わせ」だった。いきなり会ってICレコーダーを回す、ということはしないという約束だったのだ。なぜ他のメディアが会えないのに、私は会えたのか。仲介してくれた人物が、私と小山田氏両方と仕事をしたことがあったからだ。私はその人物に「複数の同級生に会って証言を得ている」ことなどを事前に伝えていた。面会場所に指定されたのは東京都内にある某弁護士事務所。打ち合わせには小山田氏の事務所のマネージメント担当者のほか、小山田氏の代理人弁護士も同席するという。相当、警戒されていた。

 私はメモもICレコーダーも持たず、「丸腰」で待ち合わせ場所に向かった。最初に小山田氏の代理人弁護士と名刺を交わし、現在の状況について簡潔な説明を聞いた。そして私は先に面会室に入り、小山田氏を待った。間もなくして本人がマネージャーと連れ立ってやってきた。そして、ペコリとお辞儀をして私の対面に座った。おお、あの小山田圭吾が目の前にいる。少し私も緊張した。

 

「小山田です。マスクはない方がいいでしょうか」

 それが最初に交わした挨拶だった。

 私は拍子抜けしてしまった。なぜ彼はマスクに言及したのか。途中で写真を撮影するのだと本人が勘違いしていた風だった。この時の小山田氏と同じ状況に置かれている場合、普通であれば相手の事を気遣う余裕などないだろう。取材慣れしているうえ、律儀な人だな、というのが第一印象だった。

「つけたままで結構ですよ。今日は取材ではありませんので」

 そう返すと、小山田氏は小さく頷いていったん外したマスクをつけた。

 実は、事前に小山田氏の人となりを探る中で、気になることがあった。一部の音楽関係者の間で「無礼なヤツ」という認識が定着していることだった。

 無論、人となりは相対する者との関係値で大きく違う。先入観やバイアスを少なくするためにも、取材対象者の人物像について事前に調べない手もあるが、私は音楽というジャンルの素養がなかったことも自覚していたので、過去に小山田氏に取材した経験のある複数人の同業者にアドバイスを求めていた。その一人がジャーナリスト・森健氏だった。森氏は90年代後半から数回、小山田氏を取材していて、2019年にも「音楽は空気の振動に戻りつつある 小山田圭吾と音楽の30年(Yahoo!ニュース特集)」というインタビュー記事を執筆している。今回の騒動に対する森氏の見解は私と一致していて、実際に本人にインタビューをする上で非常に有用なアドバイスをもらった。森氏はかつて私が住んでいた「ブギー・バックマンション」にも取材で訪れたことがあったそうだ。

 この日の面会は、本人が置かれている現在の状況について、ひたすら耳を傾ける時間だった。一通り話を聞いた後、私は単刀直入に「文春の取材を受けていただけますか」と尋ねた。即答はなかった。特に事務所は、危機管理の観点から、今再び矢面に立つようなことは控えたほうがいいのでは、と思っていたはずだ。しかも、あの「文春」というのが引っかかっていたことは間違いない。

 しかし、私はこの企画は「文春」以外では難しいと思っていた。

「返り血を浴びる」発言の本意

「この企画は下手すると返り血を浴びますよ」

 小山田氏と会う前日、私はあるデジタルメディアの編集者と渋谷にあるホテルのラウンジで向き合っていた。その編集者は私が持ち込んだ企画を「面白い」「是非うちでやってほしい」と手放しで賛美しつつ、最後にポツリと一言そう言った。「返り血を浴びる……」。何とも物騒な物言いではないか。

 編集者の本意は、過去の障がい者いじめを告白した小山田氏の言い分をこのタイミングで記事にすることで、小山田氏本人に向けられていたバッシングの矛先が取材者である「私」に飛び火するのではないかということだった。それを警戒し、私を慮ってくれていたのだった。確かにその時点でSNS上での小山田氏へのバッシングは凄まじかった。

 しかし、結論から言うとその編集者の「ぜひ、うちで出してほしい」という依頼を私は断り、「週刊文春」に企画を持ち込むことになる。そして、同誌9月23日号(電子版配信は15日)に「小山田圭吾 懺悔告白120分『障がい者イジメ、開会式すべて話します』」が掲載されるのだ。

 掲載後、Yahoo!ニュースに転載された記事のコメント欄は予想通り大荒れだった。さらに、私のTwitterには、このようなリプライが寄せられた。

「これまでいろんな人をさんざん追い込んで破滅させてきた文春で、というのが何ともアイロニーかつ説得力をなくしてる」

 手厳しいが本質を突いた指摘だった。私は「なぜ週刊文春だったのか」という問いにこう返した。

「信頼できる編集者。影響力。経費を含むギャラ。この3つを総合的に考えると一択でした」

 ノンフィクションという業界の端くれとして仕事をしてきた私にとって、「書き手」と「編集者」の信頼関係なくして仕事はできない。調査報道となれば尚更である。

 なぜ私は最初に話を持ち込んだデジタルメディアの編集者と仕事をしなかったのか。もし、あの時、その編集者がこう言ってくれていれば、仮に原稿料が安かったとしても、その媒体を優先していたと思う。

「この企画は下手をすると返り血を浴びるかも知れません。けれども、それは私(編集部)が受けて立ちますので、存分に取材をしてください」

 この世界では世論の「返り血」を恐れていては仕事などできない。私に限らず署名記事で飯を食っているプロのライターは、自分の書いた原稿が原因でバッシングされたとしても、その批判を受け入れる用意はある。ただし、納得できる取材をするためには編集者との協業が必須だ。事前の資料集めやインタビューを裏付けるための事前取材だって経費はかかる。

 そして一番肝心なのは、編集者は、書き手はもちろん記事執筆のために情報提供をしてくれた協力者、そして取材に応じてくれた当事者を全力で守る責任を負う立場にあるということだ。無論、書き手は取材過程を併走する編集者に逐一報告し、仮に取材の肝となる人物への取材が「空振り」に終わったとしても、その事実を正直に打ち明け、今後の方針を相談しなければならない。こうした両者の信頼を前提とした「協業」は、雑誌ジャーナリズムの世界では当たり前であったし、このやりとりの過程そのものが書き手を育てる教育の機会でもあった。

***

 最初の「打ち合わせ」の数日後、小山田氏から「取材に応じます」と返事をもらった。私は事前に「本当のことを話して欲しい。和光学園の同級生にもウラをとる用意がある」と伝えていた。その上で取材に応じるというのだから、それなりの覚悟があったのだろう。私は、週刊文春の編集者と相談し、事前の質問通告もなしで本番に臨むことにした。文字通り「ぶっつけ本番」である。

 取材当日は、冷たい雨が一日中そぼ降る9月上旬だった。ここから、およそ2時間、小山田氏との真剣勝負が始まった。

(#4に続く)

source : 週刊文春

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