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「おもろい」至上主義へ

「笑い神 M-1、その純情と狂気」第11回——笑い飯の存在は「ポップ」から「おもろい」へお笑いを1回転させた。

中村 計
エンタメ 芸能

「笑い飯病」あるいは「千鳥病」。

 仲間内で、そんな風に呼ばれる病が流行した。

「それまで『デートの練習をしたい!』みたいなネタをやってたやつらが、笑い飯さんと千鳥さんに憧れて、柄にもなく急に下ネタを言い始めたり、男臭いネタをやって失敗するというパターンが急増したんです」

 そう苦笑するのは、かつて大浦梶という漫才コンビを組んでいた芸人の梶剛だ。そういう梶らのコンビも例外ではなかった。

「僕らがいちばん失敗したのは麻雀ネタでしたね。架空の役を作って、これは何点みたいなことを笑い飯さんみたいに交互に言い合うんですけど、ぜんぜんウケなかった。なのに、大丈夫、大丈夫、って。笑い飯さんとかも最初の頃はウケてなかったから、と。ただ勘違いしているだけなんですけど、気分だけは笑い飯さんであり、千鳥さんなんですよ」

 2003年から2004年にかけて、劇場「baseよしもと」を中心とした大阪の若手芸人の世界は、「おもろい」至上主義へ急速に舵を切ろうとしていた。梶が続ける。

「あの頃、ほぼ全員のネタ作りが変わったと思いますよ。影響されてないというやつも潜在意識の中で変わらざるをえなかったはず。あの2組は、大阪のお笑いを1回ぐるんと変えちゃいましたから。それまでは人気さえ出れば、内容なんて二の次だった。でも、その人気が悪になって、おもろいが正義になったんです」

 変な時代だった――。人気偏重時代をそう振り返るのは、インディーズ時代から笑い飯らと付き合いがあった元芸人の水上雄一だ。

「違うよなっていうことは、みんなどこか感じていたはずなんです。おもしろいことをしたいと思って、この世界に入ってきたはずなんで」

 baseよしもとでは毎月1回、レギュラーメンバー10組と、オーディションを勝ち上がってきた3組で入れ替え戦を行っていた。そこでの争いに敗れた3組は下部グループに転落する。順位は客の投票で決めていた。水上が不服そうに思い出す。

「ときどき、『なんで、この人が?』みたいな人が落ちてくるんです。ブラマヨ(ブラックマヨネーズ)さんとか。人気がないから、どんだけウケても(客)票が入らない」

 1999年にbaseよしもとがオープンして以来、客席の大半を若い女性が占めてきた。そのため、女性ウケするような外見で、女性が喜びそうなネタをする芸人ほど票を集めやすかった。本格的なネタを信条とするブラックマヨネーズは、そんな劇場になかなか馴染めずにいた。

 ひと世代前の大阪の若手芸人たちは、白いTシャツにダメージジーンズを組み合わせるなど、ラフなファッションを好んだ。しかし、この頃になると、タイトなスーツを着用するなど小ぎれいなファッションで身を包む若手が増えた。また、ネタもいわゆる「ポップ」なものが主流となった。梶が説明する。

「恋愛ネタをするコンビが多かったですね。こんなデートをしてみたいとか、どうやったらキスをできるかとか。あとは男性アイドルの名前を出すとかね」

 笑い飯と千鳥も、当時の客の需要からは、ほど遠いところにいた。元アジアンの馬場園梓の第一印象は「反社会的勢力の人たち」だった。

 

「あの4人はいつも一緒なんですけど、劇場周りを歩いてると、ほんと、台湾マフィアみたいな感じで。むちゃくちゃ怖かったんですよ」

 その上、彼らは舞台上では、平気で下ネタを言った。女性がいようがいまいがお構いなしだった。端(はな)から「人気」を得ることを拒否しているようにさえ映った。

 他の芸人たちはファンサービスも熱心だった。出待ちをするファンと一緒に写真を撮り、サインにも気軽に応じた。ファンは「有権者」でもある。当然の営業努力だった。だが、笑い飯はそれも潔しとしなかった。

 千鳥のノブが一度、ファンの女の子とプリクラを撮った。それが西田にばれ、ノブは激怒されたそうだ。

「打ち上げかなんかだったのかな。『さっき、プリクラ撮ってあげたんですよ』って言ったら、西田さんが『なにおぅ?』って。最初、ボケてるのかと思って、いいじゃないですかって言い返したら、『おまえは客に媚びを売るんか!』って、めちゃくちゃ殴られて」

 無論、そこには西田なりの信念があったのだろう。だが大悟は冷静にこう振り返る。

「やっかみですよ。今、考えりゃ。わしらは、とにかく、女の子にモテなかったから、モテるやつらに対する敵意がすごかった。そいつらと同じようなことをしているノブを許せんかったんでしょう。わしも笑い飯を見て『お笑いをやってる人はこういうもんなんや』と思ってたんで、22、3歳ぐらいまで、女の子と飲んだことなんてほとんどなかった。あの二人と飲んでばっかり」

 現在、吉本新喜劇で活躍する喜劇役者の清水けんじは、そんな2組を「カッコええな」と思いつつも、行く末をこう案じていた。

「周りのみんなは引いてたし、先輩も快くは思っていなかった。確かに、笑い飯と千鳥はダントツでおもしろかったですよ。けど、当時は会社もお金になるんで、ポップ路線を推し進めていた。大人の論理として、それもわかるじゃないですか。なので、ずっとこのスタンスを貫くのは難しいやろなと思っていましたね」

漢字軍団の台頭

 一時代を築いた、ある女性タレントがこう話していたことがある。

「おもしろくなりたいと思ったことは一度もないんですよ。ただ、一時期、誰よりも強く売れたいと思っていたという自信はありますね」

 ハッとさせられた。その頃、ちょうど笑い飯の取材を始めたばかりの頃で、反射的に二人の顔が浮かんだ。

 真逆だ。そう思った。

 哲夫も、西田も、普段は真っ当過ぎるほど真っ当な人物である。礼儀正しく、気配りもできる。しかし、ひとたびおもしろいか否かという「物差し」を手にすると、人格が変わった。おもしろくないことに対しては容赦なかった。誰よりもおもしろくあり続けること。彼らにとって、それは生きることそのものだった。

 芸人である以上、当然ながら売れたいと思っているようだったが、笑いを突き詰める執拗さに比べると、そちらへの情熱は手ぬるく映った。

 もし、M-1がなかったら――。

 彼らへの理解が深まるにつれ、そう何度となく思った。少なくとも、今の地位にたどり着くまでに、何倍もの時間を要したのではないか。

 M-1は笑い飯が結成された翌年、2001年に、まるで呼応するかのようにスタートしている。そして「第一期」が終了する2010年まで、笑い飯ほど、M-1の女神に愛されたコンビはいない。

 笑い飯は、M-1に救われた。逆も真だ。M-1は、笑い飯に救われた。まさに運命の出会いだった。

 東京から一歩引いた立場で大阪のお笑いを眺めていたトータルテンボスのアフロヘアの方、藤田憲右はこう思い起こす。

「M-1が始まる前、大阪の笑いって、アイドル路線になってたじゃないですか。これが芸人か? って。東京がすでにそうなってたから、結局、大阪も東京に憧れてるんじゃねえかみたいな感覚があって、大阪の笑いを下に見ていたところがある。そうしたらM-1が始まって、漢字軍団が出てきた。麒麟、笑い飯、千鳥ですよ。こんな骨太で、いかつい奴らが育ってたんだ、って」

トータルテンボスの藤田憲右(左)と大村朋宏(写真 時事通信)

 ダウンタウン以降、お笑いコンビの名称は、カタカナ表記が圧倒的多数派だ。そんな中、偶然にも彼らは漢字を用いていた。

 笑い飯、千鳥の2組と麒麟は、今でこそ「戦友」としてともに語られるが、知り合ったばかりの頃は、むしろ敵対関係にあった。

 NSC(吉本の芸人養成所)出身の麒麟は、いわば正規ルートの吉本芸人である。一方、インディーズ出身の笑い飯と千鳥はルーツを持たない、この業界で言うところの「地下芸人」だった。上流と、下流。反目し合うのは必然だった。

 かつて漫才コンビ、フロントストーリーを組んでいた清水は、若かりし頃の笑い飯や千鳥とともに舞台に立っている。

「彼ら4人は、本当に態度が悪かった。部屋でもサングラスをつけたまま、辺りを睨んでるような感じで。先輩も含めてbaseのメンバー全員、敵やと思ってましたからね」

 敵の中には当然、若手のリーダー格だった麒麟も含まれていた。当時、麒麟の川島明は、下顎の裏に大きなイボができていて、それをいじるのが癖だった。そんな川島のことを大悟と西田は、陰で「イボガエル」と呼び、からかっていた。大悟は若き日々を詫びるように振り返る。

「西田さんと『おい、イボガエルが来たぞ』って言って、川島さんとにらみ合ったり。あっちからしたら、最悪なやつらですよね」

 baseですでに一定の人気を獲得していたNON STYLEの石田明は、苦々しげに思い出す。

「笑い飯さんや千鳥さんがやって来て、正直、治安が悪くなった。2組が楽屋にいるだけで、空気がピリピリしていましたから」

 

 そんなやんちゃな4人を温かい目で見守っていた先輩もいた。吉本新喜劇の座長のひとり、小籔千豊だ。

「僕はこびてくる後輩より、先輩だろうが何だろうが、『おまえら、全然おもんないな』くらいのこと言うてくる後輩の方が好きなんで」

 小籔は2組の後輩らしからぬエピソードも楽し気に振り返る。

「千鳥がのちに言うてたんですけど、昔は、誰に対しても『こんなやつらと絡むか』と思ってたらしくて。けど、千鳥が出ているステージのMCを僕が担当したことがあって、そこで無愛想だったノブをイジり倒したことがあるんです。千鳥と笑い飯はライブが終わるといつもマクド(ナルド)で合流して、『あいつはおもんない』とか、いろんな芸人腐してたらしいんですけど、そんときは大悟とノブが『小籔っていうやつはおもろかった』って報告したらしくて。そこから笑い飯の僕を見る目も変わったそうなんです」

 

 彼らは吠えまくってはいたものの、決して「弱い犬」ではなかった。

 笑い飯は2002年、2003年と連続してM-1決勝に進出。しかも、松本人志、島田紳助という「神々」からお墨付きを得た。千鳥も2003年に決勝の舞台に立ち、決勝こそ最下位に終わったが、M-1ファイナリストという称号を手に入れた。彼らが実力を証明したことで、base内の風向きは一気に変わった。水上の証言だ。

「麒麟はもともと真面目にネタ作りをしていて、2001年に一足先に決勝に進んでましたからね。そこに笑い飯と千鳥が加わった。ちゃんとお笑いをやって結果を出したコンビが3組もいたら、みんなそっちに流れますよね」

 以降、「彼女が欲しい」などのネタをやるコンビは、それだけで「おもろないやつ」という烙印を押された。「キャッチーなネタしやがって」。それがお決まりの悪口だった。

 絶大なる影響力を誇る笑い飯、千鳥らにおもしろくないと思われること。それはbase内では即脱落を意味した。主力だったヘッドライトの町田星児でさえこう言う。

「哲夫さん、よく舞台袖のモニターで他のコンビを見ていて『こいつら、おもんないわー』とか言うてたんですよ。そんなん言われたくないので、おもんないことは絶対できひんという重圧は常にありましたね」

 ソラシドの本坊元児も、当時のそんな緊張感の中にいた。

「トークコーナーで“さっぶう”みたいなことを言ってるやつとかも、哲夫さんとかにすぐイジられる。そうやって全然ウケへんくなって、辞めていった芸人はたくさんいましたよ。どんどん自信を失って。一時期のbaseは、ほんま、とがっているというか、変なことやってるやつらばっかりでしたね」

 清水もそんな空気に飲まれてしまったことがあるという。ある日、トーナメントで3回勝ち抜いたらレギュラー組に昇格できるというイベントが開催された。

 ジャッジの方法は、ここでもやはり客の投票制だった。清水らフロントストーリーは1戦目、2戦目と、圧倒的な大差で勝ち上がる。そうして迎えた勝負どころの3戦目。清水の中に小さな野心が芽生えた。

「確実にウケるネタよりも、自分がおもろいと思うてるネタをやりたくなって。相方は反対したんですけど、そこを無理やり押し通したんです。相手は滑っても勝てるやろぐらいのコンビやったんですけど、きっちり負けました。やっぱり、相方の言うてることの方が正しかった。ただ、『なんであんなんやったん?』って聞かれた時に『俺、あっちの方がおもろいと思うてるから』って言いたかっただけなんです。当時の言葉で言うと、やっぱり、それが『笑い飯病』やったんでしょうね」

 2004年10月、baseよしもとのメンバーがごっそりと入れ替わった。笑い飯、麒麟、千鳥の3組が「トップ組」として固定され、名実ともに劇場の看板になった。前時代を支えた人気芸人たちが去り、一気に男臭いカラーになったことで、男性客の割合は高くなったものの全体的な集客数は激減した。

 だが、そんな時代を経たからこそ今がある。笑い飯や千鳥と親交が深い東京ダイナマイトのハチミツ二郎は言う。

「あの時期、彼らが出てこなかったら、今の大阪吉本も、今のM-1もなかったと思いますよ」

 客がいなかった時代のbase芸人たちは決まってこの頃を「氷河期」と呼ぶ。だが、そこには気恥ずかしさとともに誇らしさが付着していた。

笑い飯対笑い飯

 フロアディレクターが必死の形相で腕をぐるぐる回し「巻き」の指示を出していた。

 2004年12月26日、第4回M-1グランプリは佳境に入っていた。7番手で登場した笑い飯のネタは「指の名前」と「二宮金次郎」という異なる2つの話を1本に繋いだものだった。

 哲夫いわく、練習では「4分半」でまとめられたそうだが、本番は、客の反応を見ながらの漫才になるので当然、それよりは長くなる。

 決勝のネタ時間は4分だ。予選では規定の時間を過ぎると警告音が鳴り、それでも終わらない場合は爆発音とともに強制終了となる。ただ、決勝の舞台でそこまで乱暴なことはできないため、ネタ時間は各組の裁量に任されていた。

 数十秒程度のオーバーなら許容範囲内である。だが、そのとき、笑い飯のネタ時間は優に6分を超えていた。別室のディレクター卓で総合演出を務めていた辻史彦は、度が過ぎた振る舞いに身を震わせていた。

「どうするつもりやねん、と。最初のネタが滑って、降りるに降りられなくなって、もうひとネタやったみたいな感じに見えた。かといって引きずり下ろすわけにもいきませんし。とにかく、早く終わってくれという一心でしたね」

 哲夫がそのときの心境を明かす。

「長いなとは思っていました。ウケてないと、余計に長く感じますから。最初のネタが終わって、次のネタに切り替わったとき、お客さんの『まだやんの』みたいな空気をひしひしと感じましたね、はい」

 インディーズ時代、哲夫の一番弟子のような存在だった中尾健秀の話を思い出す。

「お客さんのため息、何回も聞きましたよ。千鳥がウケて、その後、トリの笑い飯がウケないと延々続けるんです。一度下がって、また出てきたり。お客さんも『はぁ〜』って」

 番組終了後、辻は笑い飯を呼び出し、厳しく追及した。

「めっちゃ怒りましたよ。でも、そんとき、西田がこう言ったんです。『4分のところを倍近くやったわけやから、ギャラも倍くださいよ』って。たいしたタマですよ」

 02年、03年と2年連続で衝撃を与えた笑い飯はこの年、1本目で5位と沈み、3回目にして初めて最終決戦まで進めなかった。

 04年は、パワフルさと「ウケ量」で圧倒したアンタッチャブルの優勝で幕を閉じた。関西出身以外のコンビが優勝したのは4回目にして初めてのことでもあった。

 強気な姿勢を崩さなかった西田だが、毎回、期待通りの結果を出すことの難しさを痛感していた。

「今までは世に出てない分、ネタの貯金があった。でもM-1で注目されて、いろんなネタ番組に出させてもらったりしているうちに、いいネタが尽きてしまった」

 通算3度、M-1ファイナルに出場したトータルテンボスのネタ担当・大村朋宏は、複数回出場の難しさをこう表現した。

「出るたびに、前の自分がライバルになるんです」

 笑い飯対笑い飯。2004年以降、笑い飯は、考えうる中で、もっとも手ごわい相手を敵に回さなければならなかった。

(文中敬称略、以下次号)

なかむらけい 1973年、千葉県生まれ。『甲子園が割れた日 松井秀喜5連続敬遠の真実』でミズノスポーツライター賞最優秀賞、『勝ち過ぎた監督 駒大苫小牧幻の三連覇』で講談社ノンフィクション賞を受賞。近著に『クワバカ』。『言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』(ナイツ塙宣之著)の取材・構成も担当している。

source : 週刊文春 2022年2月3日号

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