週刊文春 電子版

歌謡曲の時代を背負って①

短期集中連載 ジュリーがいた

島﨑 今日子
エンタメ 芸能

 久世光彦と阿久悠という最強の戦力が加わった1975年。「時の過ぎゆくままに」で王冠に手が届く、という時に事件は起きた。ビジュアルの時代が始まる。

写真=横木安良夫

 カラーテレビの世帯普及率が白黒テレビのそれを追い抜いたのは1972年、ジュリーがスーパースターへの助走となる「許されない愛」を歌った年である。パソコンも携帯電話もなく、エアコンの普及率は低く、お茶の間という空間で家族が集まってテレビを楽しんだ70年代は、聴く音楽が見る音楽へと移行。民放各局では歌謡番組が花盛りで、毎日のように生放送されていた。

 この時代をジュリーに伴走したのが、「危険なふたり」から沢田研二のプロデューサーとなった加瀬邦彦である。2010年1月24日、ザ・タイガース解散の日にザ・ワイルドワンズと活動することを発表した61歳の沢田は、取材で加瀬を「恩師のような存在」と評した。

 加瀬より少し早い時期に、沢田研二のマネージャーとなったのが森本精人であった。森本は、カラーテレビの時代を生きることになるジュリーを10年の長きにわたって支えた。

「まだプロジェクトを組むなんて時代じゃありませんでしたが、加瀬邦彦に安井かずみ、早川タケジ、木﨑(賢治)らのジュリー専科のチームが結成された頃です。僕が長くジュリーのマネージャーでいたのも、チームだったからだと思います」

 そもそもアーティストの管理、企画、売り出し、営業までを任される渡辺プロダクションのマネージャーは、「演歌からロック、ドリフターズまでを担当する」もので、独立のリスクがあるため一人のアーティストに長くつかないという不文律があった。なのに森本は「君をのせて」半ばから、一時離れてもまたジュリーのところに戻ることになる。彼がマネージャーだった時に沢田研二は歌謡大賞を獲り、レコード大賞も獲ることになって、森本を「福の神」と呼ぶ人もいた。

ガラスから鋼鉄へ

 森本は沢田の2歳年上で、46年兵庫県の丹波篠山に生まれ、早稲田大学卒業後の69年、全盛期の渡辺プロに入社した。同期にキャンディーズを育てた、現アミューズ会長、大里洋吉もいて、「花の8期生」のひとりである。

「僕は教師志望で、人を育てるという意味ではマネージャーも同じだなと入社したんです。大里君のように自分でクリエイトして天下をとるタイプではなく、調整型。ジュリーとは同じ関西出身、気心は通じました」

 73年6月に発売された「深夜放送ファン別冊 沢田研二のすばらしい世界」には、「沢田研二ミュージック・ファミリー」と題して、ジュリーを支える仲間とスタッフの写真が掲載されている。加瀬に安井に、井上堯之、大野克夫、岸部修三(現・一徳)、原田裕臣ら井上バンドのメンバーにポリドールの担当、森本に宣伝担当、カメラマンの武藤義もいて、20人が沢田を囲んでいる。

 森本は言う。

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source : 週刊文春 2022年4月28日号

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