歌舞伎や能楽の鑑賞ほどではないが、現代日本では相撲の観覧というのも、かなり高尚な趣味の部類に入るのではないだろうか。実際、テレビの大相撲中継を見ていると、土俵の向こうの升席(ますせき)に、きれいな和服に着飾ったご婦人方をよくお見掛けする。プロ野球やJリーグと比べて、やはり大相撲は伝統と格式ある世界と考えられているのだろう。
ところが、室町時代まで遡ると、相撲も現代のものとはかなりイメージが違ってくる。
この時代の京都の公家たちが書いた日記などを読んでいると、室町人はよほど相撲が好きだったらしく、あちこちの村祭りなどで相撲大会が行われていることが分かる。しかも、やたらと長時間で、夕方から始まって翌日の朝にまで及ぶことすらあった。観客が1000人以上集まることも珍しくなく、ときには、その観客が“飛び入り”して一緒に相撲を取るという場面も見られた。そのうち多くでは、ヒートアップのあまり、競技者同士、あるいは観客も交えて激しいケンカまで発生している。
延徳元年(1489)9月に京都郊外の山科(やましな)で行われた相撲大会では、同日に2度もケンカが発生しただけでなく、その最中に観客席から投石がなされ、関係者は足や頭を切る大ケガを負っている(『山科家礼記(けらいき)』)。座布団投げどころの話ではない。
当時は「相撲の果てはケンカになり、博奕の果ては盗みをする」という諺(ことわざ)があったぐらいで(狂言「三人片輪」など)、相撲にケンカは付き物だった。鎌倉時代のある寺では、夜相撲の禁止令まで出されていて、それによれば「相撲は仏事でも神事でもないのに人が集まり、ややもすれば些細なことでケンカになり、刃傷や殺害の原因となる」という(「越知(おち)神社文書」)。相撲で殺されてしまっては、たまらない。
とくに室町幕府や大名たちが神経を尖らせていたのが、「辻相撲(つじずもう)」と呼ばれる路上での即興相撲大会だった。当時は街の公道を舞台にして、庶民が勝手にノリノリで相撲大会を開催していたのである。しかも、同じ禁止令が何度も出されているところを見ると、為政者の憂慮をよそに、禁止令はほとんど守られていなかったようだ。よほど庶民は辻相撲に熱狂していたのだろう。
すべてが今より荒々しかった時代、決して相撲はお行儀よく見るものではなかったし、土俵にあがる者も今より遥かに闘志満々だった。
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source : 週刊文春 2022年6月2日号