歴史学界では、研究者の名前を呼ぶとき、「〜先生」とは呼ばずに、どんな偉い先生であっても必ず公の場では「〜さん」と呼ぶ習慣がある。これは「研究者は互いに対等である」という原則に基づく文化で、たとえ自分が指導を受けた先生であっても、学会などで、その名を口にするときは、「〜さん」と呼ぶのが常識だ。

 たしかに誰かの研究を批判しようとしたとき、論敵を「先生」と呼びながら批判するのは迫力が出ないし、見ようによっては慇懃無礼でイヤらしくすら見える。しょせん呼び名の問題に過ぎないのだけれど、この習慣は意外に学界の風通しを良くする効果があると思う。そのせいか、他の学問分野で聞くような「白い巨塔」的な師弟関係や、「あの大先生の研究を批判したら、この世界で生きていけなくなるぞ」みたいなゴシップは、少なくとも僕の知る世界では、まず聞いたことがない。

 それに比べて最近は、どこも「先生」という呼称がインフレ気味ではないだろうか。「先生」と呼んでおけば問題ないだろうとばかり、誰もが簡単に使い過ぎている気がする。僕も指導しているわけでもない人から「先生」と呼ばれるのは、かなり抵抗がある。逆に言えば、「先生」呼称がどれぐらい氾濫しているかは、その業界の健全さのかなり有効なバロメーターになると思うのだが、さて、皆さんのまわりはどうだろうか?

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source : 週刊文春 2022年9月1日号