日本中世において女性の地位は、僕らが想像するよりもずっと高かった。政略結婚とはいえ、結婚後の女性は実家の利害を代弁する立場として嫁ぎ先でも強い発言力をもっていたし、後継者を産めば、その母として、さらに大きな権力を手に入れることにもなった。
宝徳3年(1451)9月のある日の夕暮れ、八代将軍足利義政(よしまさ)(当時の名は義成(よししげ))の生母である日野重子(ひのしげこ)は、突如、北小路の邸を出奔した。消えた重子の行方をめぐって人々が右往左往するなか、やがて彼女の身は京都郊外の嵯峨大覚寺の五大堂にあることが判明する。そこで将軍の意をうけ2人の使者が嵯峨に向かったところ、重子からは「気候が涼しくなって年来の腰痛が再発したため、その快癒を祈って、しばらく参籠(さんろう)(寺社へのお籠り)をします」との素っ気ない返事がかえってきた。
初回登録は初月300円で
この続きが読めます。
有料会員になると、
全ての記事が読み放題
既に有料会員の方はログインして続きを読む
※オンライン書店「Fujisan.co.jp」限定で「電子版+雑誌プラン」がございます。ご希望の方はこちらからお申し込みください。
source : 週刊文春 2022年12月1日号