この連載も第50回、おかげさまで開始から1年が経とうとしている。これまで色々とよもやま話を書いてきたが、いま僕自身がいちばん力を入れている研究については、まだ一度も書いていなかった気がする。
今から9年前、僕は、同じ分野を研究している桜井英治さん(東京大学大学院教授)と、『塵芥集(じんかいしゅう)』という法典を読み解く異色の対談本を刊行した。『塵芥集』とは、戦国大名伊達稙宗(だてたねむね)が制定した分国法(領国法)で、知る人ぞ知る有名史料だ。その内容は詳細を極め、道路の通行法から夫婦喧嘩まで、様々な戦国時代の猥雑なトラブルとその対処法が具体的に171条にわたって書かれている。
当然、研究者のあいだでは古くから知られていた史料なのだが、実は読み解くのは決して容易ではない。その証拠に、有名なわりに今まで全文の現代語訳は誰も行っていないのだ。難解である最大の理由は、ふつう分国法というのは法律に明るい官僚たちが草案を作り、それを大名当主の名前で公布するものなのだが、『塵芥集』の場合、どうやら伊達稙宗自身が誰にも相談せずに独力でこしらえてしまったらしいことだ。
現代でも、あまり出来の良くないワンマン経営者が、やたらと社内に我流の訓示を貼り出したり、社内の広報誌に推敲不十分な檄文を載せたりして社員の顰蹙(ひんしゅく)を買うという話をたまに聞くが、『塵芥集』もちょっとそれに近いところがある。どうでもいい些末なことをダラダラ書いているかと思えば、肝心なことは言葉が足りなかったりする。そのため読んでも、いったい稙宗が何を言いたいのか、さっぱり分からないのだ。
桜井さんと僕は、この奇妙な法典をネタにどんな解釈が可能か、編集者Hさんの企画で、稙宗の居城桑折西山城(こおりにしやまじょう)近くの福島県の土湯(つちゆ)温泉に2泊3日で泊まり込み、縦横無尽に語り合うガチンコ対談を行ったのだ。旅館に軟禁され、ひたすら対談収録と温泉休憩を繰り返す3日間は、さながら将棋の名人戦のようでもあり、杉田玄白と前野良沢の『ターヘル・アナトミア』の翻訳作業のようでもあり、僕の研究者人生のなかでも最も楽しく濃厚な3日間だった。
たとえば『塵芥集』第163条には、こんな条文がある。
一、密懐(びっかい)の事、押して嫁(とつ)ぐも、たがいに和(やわ)らぐも、媒宿(なかだちやど)なくして、これあるべからず。かくのごとくの輩(ともがら)、同罪たるべきなり。
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source : 週刊文春 2023年4月27日号