沈黙は静穏に非ず。そこにあるのは王将を賭けた苛烈な交信。盤上に生きる者を活写する、堂々の新連載。
2022年2月4日 順位戦A級 8回戦 東京・千駄ケ谷
2頭の巨大な犬が坂を上ってきた。静寂の中に荒い呼吸が響いた。体高はともに乗用車のボンネットほどもある。だが、何より人目を引いたのは白と黒の対照的な毛色であった。鮮明なコントラストを描いた大型犬はこれから始まる勝負の行方を占うように抜きつ抜かれつしながら、渋谷区千駄ヶ谷に建つ将棋会館の前を通り過ぎていった。2022年2月4日の朝のことだった。
次第に、将棋会館と向かいの鳩森八幡神社とに挟まれたゆるやかな坂道には人の往来が頻繁になっていく。そのうち幾人かが装飾を排した厳かな会館へと吸い込まれていく。将棋連盟職員や機材を抱えた報道関係者、そして棋士たち。一様に無言で表情は張り詰めていた。この日、会館では第80期順位戦A級8回戦が予定されていた。棋界最上位者たちの戦いである。
午前9時半を過ぎると、空を覆っていた雲がはれて朝陽が路地の半分を照らし出した。くっきりとした明暗の中、坂を上ってくる者があった。羽生善治であった。紺色のスーツにほぼ同色のキルティングジャケットを羽織り、左手にカバン、右手にコンビニエンスストアのレジ袋を下げた姿は朝の景色に溶け込んでおり、道行く人は誰もそれが大棋士だとは気付いていないようだった。わずかに肩を揺らしながら淡々と刻む羽生の歩みは自らの周囲に満ちている緊迫感とは隔絶していた。ひとりだけ異なる空気の中に生きているようだった。決して急くことなく、それでいて止まる気配もなかった。対局開始25分前、羽生は静かに将棋会館の玄関へと消えていった。
◇
毎日新聞社学芸部の山村英樹は壁時計を見上げた。時刻は午後9時をまわっていた。時計から視線を外した山村は、室内を見渡した。12畳敷の和室「桂の間」には数人の男たちがいるだけだった。通称「と金クラブ」と呼ばれるこの部屋は将棋会館を4階に上がってすぐの場所にある。普段は棋士たちの食事休憩などに使われているが、棋戦などがある日は主催新聞社の記者や運営スタッフの控室となっていた。
男たちの前には長テーブルが横たわっていた。その上には検討用の将棋盤がいくつか並んでいて、静まり返った部屋には時計が秒針を刻む音と、時折動く駒の音が響くだけだった。順位戦の日はいつも館内の空気が張り詰めていたが、この日は特に棋界全体を緊張させている一局があった。羽生善治対永瀬拓矢。史上最多のタイトル通算99期を誇る羽生は棋界のスターである。ただ、かつて七冠を独占した羽生も51歳となった今は無冠となり、通算7割を超えていた勝率も今年度は3割台まで落ちていた。順位戦でもここまで2勝5敗。この日敗れれば最終局を待たずにB級1組への降級が決まることになっていた。22歳でA級入りしてから29期に渡って最高峰の戦いを続けてきた羽生の降級は将棋界にとってひとつの時代の終焉を意味していた。
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source : 週刊文春 2023年5月18日号