「また勝てばいいんだ」。八木下は、敗北を怖れず喜々として盤に向かう少年に、他にはないものを見ていた。
2022年2月5日 順位戦 翌日 東京・八王子
晴れた土曜日だった。八木下征男は朝から時間をかけて新聞をめくった。月水金は人工透析のために午前中から午後1時過ぎまで病院にいなければならなかったが、週末は時計を気にすることなく、じっくりと紙面に目を通すことができた。
目当ての記事は社会面にあった。ページ中央に目立つ大きさの見出しがつけられていた。
『羽生九段 A級陥落 連続29期でストップ』
前日、第80期順位戦A級8回戦、永瀬拓矢との対局に敗れた羽生善治は最終9回戦を待たずに、B級1組への降級が決まった。それは確かに大きなニュースであった。
「内容も結果も伴わなかったので致し方ない」
紙面には羽生のこんなコメントが載っていた。よく見ると、降級についての心境だけでなく、翌期の順位戦についても問われたようだったが、羽生は先のことについては明言を避けていた。
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source : 週刊文春 2023年6月8日号