「休憩なしでこのまま指したい」。明らかに優位と見られていた名人米長はなぜ前代未聞の要求を行ったのか。
第一章 時代の声 其の三
「羽生さん、いかがでしょうか」
対局室に問い掛けが響いた。互いの鼓動が聞こえそうなほどの静けさの中、返答を待つ沈黙が流れた。
第52期名人戦第5局は2日目の夕刻になって異例の事態が起きていた。夕食休憩なしで指し継ぎたい――名人の米長邦雄がタイトル戦ではほとんど前例のない要望を出したのだ。あとは挑戦者の羽生善治がどう応じるか。名人戦を主催する毎日新聞社学芸部の山村英樹の頭には疑問と推測が駆け巡っていた。
なぜ優位に立っている米長がそこまで切羽詰まった行動に出なければならないのか。また、いくら盤外のことにはほとんど執着を見せない羽生であっても、果たして、この要求を受け入れるだろうか……。
ところが羽生は一拍置くと、すんなりとこう言った。
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source : 週刊文春 2023年6月1日号