【前回までのあらすじ】依頼人・瀬尾政夫の窓口を務める編曲家の池田啓太は、瀬尾と共に奥田美月の代表曲の一つである『声』の録音現場に居合わせていた。お金も時間も費やした渾身の勝負作であり、美月の希望で一発録りでレコーディングに臨んだ日のことを池田はイキイキと振り返る。当時の緊張と興奮が伝わってきて耳を傾けていたも名曲の誕生秘話に胸が躍った。

 

「編曲家として一番幸せな瞬間って、完成した楽曲をスピーカーで聴いてイメージ通りだったときなんです。ただ、このときは自分の頭の中にあった音を遥かに超えてましたね。最高でしたよ。美月も相当入念に準備してきた形跡が窺えました。ミキサー室で政夫ちゃんとハイタッチしたとき、本当に音楽やっててよかったなって……」

 池田は感極まったようにハンカチで目尻の涙を拭った。彼は今も作曲・編曲家として現役で活躍している。だが、心身ともに充実し、日本のトップアーティストと仕事をしていた輝かしい過去には、特別な想いがあるのだろう。懐かしさと寂しさが綯交(ないま)ぜになったような表情を見ていると、奏ももらい泣きしそうになった。

「念願のレコード大賞も獲れたし、過去最高の売上も記録したし、言うことないですよ。ちなみに私は、伊豆から帰って救急車で運ばれましたけどね」

 きちんとオチをつけた池田は、照れ隠しの笑みを浮かべた後、しみじみと言った。

「音楽プロデューサーと歌手が、あそこまでうまくいってるケースを他に見たことがないんですよねぇ。政夫ちゃんと美月は互いの才能に惹かれ合い、認め合ってましたよ。理想的な関係ですよね」

 その言葉を耳にし、奏はバーで見た天童の横顔を思い出して胸が苦しくなった。

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source : 週刊文春 2023年11月23日号