僕が背番号《1》に惹かれる理由

 額装された背番号《1》の復刻ユニフォームをニヤニヤ眺めながら、幸せな年の瀬を過ごしている。子どもの頃からずっと、ヤクルトの背番号《1》に魅せられてきた。僕が小学生だった頃から浪人時代にかけて、この番号を背負い続けたのが「初代ミスタースワローズ」にして、「小さな大打者」と称された若松勉だった。

 小さな身体で右に左に打ち分ける巧みな打撃技術にほれ込んだ。当時、巨人のエースだった江川卓や、阪神の小林繁を相手に、ときには弾丸ライナーでライトの頭を越したり、ときには完全に狙いを定めて三遊間の狭い隙間を破ったり、子ども心に「なんてカッコいいんだろう」としびれまくったものだった。

 その若松さんが89年限りで引退すると、ヤクルトにはしばらくの間、背番号《1》が不在となった。しかし、僕が大学在学中の92年になると、「ブンブン丸」としてチームの中心選手に成長していた池山隆寛がこの番号を背負うことになった。三振も多いけれど、豪快な一発が魅力的だった池山さんは、若松さんに負けず劣らず、この番号の価値を高めてくれた。彼もまた背番号《1》がよく似合う名選手だった。

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 しかし、99年オフに「僕にはもう、この番号を背負えるほどの価値はない」という理由で、池山さんは自ら背番号《1》を返上する。くしくも、このときチームを率いていたのは、池山さんの前に《1》を背負っていた若松勉だった。この頃、三十路を目前に控えていた僕は、「あぁ、ひとつの時代が終わるのだなぁ……」と感慨に浸ったことを、よく覚えている。

 ヤクルトに再び背番号《1》が登場するのが、21世紀を迎えた2001年のことだった。このとき、新たなミスタースワローズに指名されたのが岩村明憲だった。若松監督がチームを率い、大ベテランとなっていた池山隆寛が見守る中、岩村さんは期待通りの活躍を見せる。その後、池山さんは02年シーズンオフに現役を引退し、若松監督は05年オフにユニフォームを脱いだ。この間、岩村さんは背番号《1》の価値をさらに高めるべく、06年シーズンまでこの番号を背負い、そしてアメリカへと旅立っていった――。

そして、青木宣親から、山田哲人の時代へ

 07年から09年までの3年間、ヤクルトに背番号《1》が不在のシーズンが続いた。すでにフリーランスライターになっていた僕は、黙々と日々の原稿を書きながら、「次に背番号《1》を背負うのは青木宣親しかいない」と確信していた。そして、その思いが現実となったのが10年シーズンのことだった。

 しかし、青木の背番号《1》時代は長くは続かなかった。11年シーズンを最後に、岩村さん同様に青木もメジャーリーガーとなり、ヤクルトから去ってしまったのだ。翌12年から15年までの4年間、神宮球場には背番号《1》の姿はなかった。この時点ですでに、ヤクルトファンになって三十数年が経過していたけれど、心にぽっかりと穴が開いたような日々だった。僕にとって背番号《1》は、やはり特別な番号なのだということを実感していた。

 神宮球場のグラウンドに背番号《1》の姿があると、一気にその場所だけ華やかになるような気がするのだ。若松勉、池山隆寛、岩村明憲、そして青木宣親。歴代の背番号《1》はみな、ミスタースワローズの称号に恥じないスターばかりだった。やはり、背番号《1》は特別な番号なのだ。不在だからこそ、その存在感はより強くなっていたのだった。

 そして、ついに16年からは「ミスター・トリプルスリー」の山田哲人にこの番号が与えられることになった。それを発表する記者会見の席上、当時メジャーリーガーだった青木宣親がサプライズ登場し、山田に真新しい背番号《1》のユニフォームを与えるという、実に心憎い演出がなされた。このとき青木は山田に言った。

「ヤクルトの《1》は特別な番号。プレーだけでなく、人間的にもチームを引っ張っていってもらいたい」

 この言葉を聞いて、僕は心から納得し、「さすが、青木!」とうなってしまった。そうなのだ、ヤクルトの背番号《1》は、野球の実力はもちろん、チームリーダーとしての役割も求められるのである。だからこそ、小学生だった僕は若松さんに魅せられ、大学生だった僕は池山さんに魅了され、大人になってからは岩村さん、そして青木宣親に心からの声援を送っていたのだ。この背番号《1》を背負いし者の宿命として、山田にも一連の先輩たちのような大選手になってほしい。僕はそう願っていた。