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「魚河岸問題腐る」――箱崎移転の立ち消え

 その後は、時折「魚河岸紛議の続報」「魚河岸移転受書再延期」などの見出しが紙面に踊るものの、これといった進展は見られなくなる。だが1904年(明治37)1月9日に一連の事態を総括するかのような、歴史的にも傑出した見出しが打たれる。

1904年1月9日の朝日新聞「魚河岸問題腐る」の記事

「魚河岸問題腐る」

「日本橋魚河岸移転最終期限は来四月末日にして五月一日よりは移転指定地たる日本橋区箱崎町(中略)にて営業すべきは法令の示すところなるに市会も警視庁も市場組合自身も全く之を忘れたるものの如く」と痛烈に、かつ全方位的に批判している。しかもこの時点で予定地には「すべて家屋建ちて百九十余戸に及び大工場大倉庫もあり現住百六十戸に達して一坪の空地も余さず(中略)魚河岸は五月一日より居るに所なく移るに場所なき事実なり」

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 まさに「腐る」という表現がふさわしい。こうして結局箱崎移転は立ち消えになってしまった。

「魚河岸一つにさえ、30年もグズる東京じゃないか」

 市場移転の論議が現実味を伴って大きく動き出すのは、それから10年以上経過した大正時代に入ってから。1916(大正5)年にコレラが大流行し、より厳しい衛生管理が求められるようになる。さらに1918(大正7)年には米価暴騰からの米騒動。「騒動」というと呑気な趣もあるが、当時は軍隊まで出動し、夜間の外出が禁じられるほどの大騒乱だった。こうした背景もあり、食料供給の安定と安全の確保が急務となり、いよいよ政府も中央卸売市場の設置に本腰を入れることになる。

1922年8月20日の朝日新聞「中央市場なんてまあ出来まい」の記事

 ただし当時の世間やメディアには諦めムードすら漂っていた。「中央市場なんてまあ出来まい 魚河岸一つにさへ三十年も愚図る東京ぢやないか」(1922年8月20日付)というような論調が噴出する。1923(大正12)年3月に「中央卸売市場法」が公布されるものの、どこへ移転するのかも依然として侃々諤々。

 同年8月下旬には朝日新聞も「中央市場位置問題 市政調査会の意見」として全4回の連載形式で移転問題を取り上げている。その最終回となる8月31日の第4回においてもなお「芝離宮沖埋立地」「築地」「芝浦」という3つの候補地を比較する記事が掲載されたが、翻って言えばその程度の段階で事態は停滞していた。記事は「三十五年間の懸案を解決するのが目下の急務である」と結んでいる。

関東大震災で一気に進んだ築地移転

 そしてその翌日の9月1日午前11時58分、関東大震災が起きた。日本橋魚河岸を始めとする各市場群は壊滅。もはや選択の余地はない。結果皮肉なことに、35年間進まなかった市場移転が震災で一気に進むことになる。

 震災から半月後の9月17日、日本橋市場組合が芝浦で仮営業を開始。震災から3カ月後の12月には築地に仮設の魚市場が開場する。その日の見出しは「鯛の揚げ荷で/けふ開場式の築地新魚市場/名残も惜く江戸名所移る」(1923年12月1日付)。その後、海軍から敷地を譲り受け、1935(昭和10)年に私たちの知る東京市中央卸売市場が開設される。

閉場前の築地市場でのマグロの解体 ©文藝春秋

 衛生面の要求の高度化、河岸衆の反発、遅々として進まぬ話し合いに旧市場への愛着――。近年の築地から豊洲への市場移転に際して起きたことはすべて100年前に起きていた。

 現代に目を移すと、築地や豊洲における年の瀬の風情に変化はあるものの、市場の移転はまだ終わっていない。豊洲はいまだチューニング途中であり、移転元の築地市場跡地の活用案もここへ来て二転三転している。本来、舵取り役は、正しいと信じられる道を指し示し、社会に問わねばならない。為政者も然り、市民も然り。私たちが学ぶべきは歴史のなかにある。