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豊洲騒動の“デジャブ感”とは 日本橋→築地移転も大モメだった歴史

「魚河岸一つにさえ、30年もグズる東京」――100年前の「朝日新聞」

2018/12/30

河岸の男たちは与しやすい相手ではなかった

 実際に「東京市区改正」事業が始まったのは、先の報道の翌年、1889(明治22)年のこと。事業には市場の移転計画も盛り込まれた。

「魚鳥市場は日本橋永代町北新堀町箱崎町中洲町、芝区新網町湊町、深川区蛤町黒江町の三ヶ所(中略)十ヶ年以内に(中略)指定の地に移転すべき」(1889年5月25日付)

 ところが日本橋の河岸の男たちは、二つ返事で首を縦に振るほど与しやすい相手ではなかった。

日本橋の魚河岸に舟を泊める漁師・商人たち(撮影日不明) ©AFLO

「在来の魚河岸(中略)の魚商人は数百年間定住の居所を放棄するの損害と新市場を築造するの失費とを合算すれば莫大な金額となり到底商人の力にて弁じ得べからず」(1891年4月24日付)と主張。移転費の2割の補助を求めるなど、河岸の男たちは数々の要求を突きつける。

 もっともほぼ全項目で「認許相成り難し」「詮議に及び難し」と東京市参事会同府知事から断られ、当然のようにモメ上げることに。さらにこの頃になると内紛じみた騒動も報道されるようになる。河岸の衆から組合鑑札料の仕組みに不満が噴出してしまったのだ。

「不満抱けるもの多きが中にも芝川岸(しばかし)組と称する一派の魚商輩は殊の外激昂し同組中の(中略)三十四名は一両日前事務所に押し掛け書記加藤定吉に面会」(1891年9月8日付)

日本橋の魚河岸で魚を運ぶ男たち(撮影日不明) ©AFLO

延期、移転白紙、議論のやり直し……

 揚げ句、飲食店で「魚河岸連と米商連が出入」(1894年1月20日付)と他集団とケンカ騒動を起こすような状態では、期限通りの移転など望むべくもない。1899(明治32)年5月27日には「魚市場移転延期の許可」という見出しとともに「種々の事情あるがため」「更に五ヶ年の延期」を認めるという報道がなされた。

 もっとも多少期限が延期されようとも、長年、多数の人が関わってきた事業がひっくり返ることなどそうそうないのは、平成の築地→豊洲市場移転騒動を見ても明らかだ。「喉元すぎれば……」を地で行くように、延期とともに議論は動かなくなる。

 数年後、1902(明治35)年3月14日の朝日新聞に「魚河岸移転問題の切迫」という記事が掲載され、またも移転問題が可視化されるが「非移転派は飽くまでも祖先来の営業地を去るの情に忍びず又同所は東都の中心点にして八百八町何れよりするも利便の地なれば今他に移転する時は種々の不便を生じ市場の衰退を来すに至らん」と主張。事態はますます硬直化していく。半決まりだった箱崎への移転が白紙に戻り、一から議論のやり直しという、これまたどこかで聞いたような話が展開された。