「殺人」を正当化する言葉
では、麻原は、どのような言葉で「殺人」という行為を正当化し、幹部たちに最後の一線を越えさせていったのか。700本の極秘テープには「ヴァジラヤーナ」という言葉を信者たちに繰り返し語る麻原の様子が記録されている。88年7月、インドから帰国した麻原は一部の幹部に向け次のような説法を行っている。
【ここで一つあなた方に秘儀の伝授をしよう。これはオウムの大変な秘密の部分に属するから、これを口外したものは、一番長いと言われている、小乗では阿喚地獄、大乗では無間地獄に至ると考えなさい。グルの言ったことは絶対である、あるいはグルのためには殺生ですらしなければならない、たとえばここで500人の衆生が殺されるんだったら、その殺す人を殺しても構わない。これがヴァジラヤーナだ】
この説法の2カ月後、教団内で信者の死亡事件が起きる。麻原と側近たちはその信者の遺体を焼き、事件を隠蔽。さらに、事件に関わりながら教団を脱会しようとした信者を殺害した。麻原は、殺害に関わった幹部たちに、繰り返し「ヴァジラヤーナ」の教えを説いていた。
【例えばAさんを殺したという事実をだよ、人間界の人たちが見たならばね、これは単なる殺人と。客観的に見るならば、これは殺生です。しかし、ヴァジラヤーナの考え方が背景にあるならば、これは立派なポアです】
「ヴァジラヤーナ」とは、もともとはサンスクリット語で広義の「密教」を指す言葉だ。これを麻原は、救済のためなら殺人や破壊を行ってもいいとする独自の「教え」にすり替えていたのだ。
今回、教団のナンバー2だった上祐史浩がNHKのインタビューに応じた。現在は、自らの宗教団体の代表である上祐。麻原に「ヴァジラヤーナ」の教えに基づく武装化計画に参加するよう迫られた、と語った。
「『このヴァジラヤーナの計画(殺人兵器の開発)に協力するか、在家に戻るか、どっちかにしろ』と。麻原の世界の中にいると、ポアする側かポアされる側かどっちか選択しろということなわけですよ。こういった秘密の計画を打ち明けられた以上、要するに、麻原とその集団は日本全体のポアに向かうのであって、お前がこれに協力せず、例えば教団をやめるということになれば、お前はポアされる側に回るんだと。悩んだ挙げ句、最終的には麻原に協力することにした……」
このようにして、幹部たちを巻き込み、社会の破壊をもくろむ「ヴァジラヤーナ計画」が極秘裏に進められることになった。
オウムは90年に、熊本県阿蘇郡波野村(当時)に教団施設を建設する計画を立て、同村の土地を取得している。上祐は次のような事実を明かした。
「波野村の90年。波野村というのは、実は集団移転のためだけに取得したのではなくて、あそこに麻原がヴァジラヤーナの教団武装化の拠点を作ろうとした。あそこで要するに軍事兵器を開発しようとしていたんです」
当時、兵器開発に携わっていた元信者によれば、時限発火装置や風船爆弾を数千個単位で製造。上空で空き缶を爆発させ毒ガスを散布する実験も行われていたという。これまでオウムの武装化は93年頃、旧上九一色村など富士山麓で進められたとされていたが、さらに早い段階でしかも別の場所で行われていたという衝撃的な新事実だった。
波野村の施設は、90年10月、国土利用計画法違反の疑いで熊本県警の強制捜査を受けることになる。ところがオウムは、夫が熊本県警の警察官だった女性信者から、強制捜査に入るという情報を一週間前につかんでいた。
上祐はこの時の隠蔽工作についても次のように証言した。
「(強制捜査の情報を受け)隠した主なものは、軍事研究の痕跡ですね。国土法違反の証拠とか、そういうものはそんなに熱心に隠していないと思いますよ。そういうことには教団は全く関心がなくて、塩素ガスだとか、何とか研究とか、そういった(兵器開発の)痕跡が強制捜査で分からないようにということに集中してましたね」
オウムのその後の暴走を防ぐことができたはずの最初の大きなチャンスを、警察が逸した瞬間だった。
「ヴァジラヤーナ計画」の舞台はその後、山梨県旧上九一色村に移る。ここで、遠藤や筑波大学で化学を専攻した土谷正実(死刑確定)らが中心となって化学兵器サリンの開発に着手する。麻原が指示したのは70トンのサリン製造。それは少なく計算しても70億人分の致死量に当たる信じ難い計画だった。
※後編に続く