女性的な趣味を楽しむことを、一段下にくくっていたのでは
さらに言えば、こうしたものに多額のお金をかけること、それを公言することに、言い知れぬ抵抗感がある。本やガジェットであれば、どのくらいお金や時間をかけたといくら語っても居心地悪くならない。しかし、化粧や服だとそうはならない。それは単に「ブスのくせに」と自分が自分を咎める気持ちからだけではない。どこかで、女性的な趣味を楽しみ、それにお金を費やすという行為について、一段下にくくっているところがあったからではないか。
「スイーツ(笑)」という言葉が一時期流行したことがあったが、女性的なもの、顕示的とされやすい消費を謳歌することは、中身がなく、語る価値のないものだ、つまり“(笑)”なんだという価値観に、自分も影響されていたのかもしれない。この本を読むまで、そういう価値を内面化していたのは私だけだと思っていたが、もしかしたら、他の女性たちもそうだったのかもしれない、と思う。
化粧品や服をSNSにアップすれば、「さしてかわいくもないくせに」と思われるかもしれない。「◯◯系」と外から勝手にカテゴライズされるのもあまり嬉しくない。高価な物をアップすれば、贅沢好きで高慢なやつとか思われるのかもしれない。私は社会運動についての調査研究を行っているが、周囲には着飾ることやそれにお金をかけることに対して肯定的ではないであろう人が多く、そうした人たちの視線も正直気になる。
公には言えない、だが、自分が何を買ったのかを誰かに打ち明けたり、他人が何を考えて選んでいるのかを知ったりはしたい。『だから私はメイクする』は、そうした欲求を満たす本なのだろう。この本を通じて、「よそおうこと」に何がしかのこだわりや企みをもって、よそおいながら社会を生きている人の存在を見て、さまざまな生き様に励まされるのかもしれない。
消費という経験を経由してつながる
現代において、予め定められた性や社会的な性をもって、私たちは連帯できない。「女」といっても、出自も収入も学歴も職業も大きく異なる。ただ、私がこの本から感じたものは、消費という経験を経由して繋がれる可能性のほうだ。消費なんて、くだらなくてつまらなくて不健全に見える。しかし、よそおうことを社会的に要請されている以上、その経験を通じてつながる可能性にも賭けたい。ルナソルのシャドウの細かいキラキラやシャネルのグロスを「点滴のように」脳に作用させながら仕事に追われる生活は、自分にも思い当たるものだ。消費社会を経た新しい時代の連帯を、多様で奥深い共感のありようを、この本から見て取ることができる。
本を読んだあと、銀座に行って鞄を買った。私には語るような勇気もなく、身近に語れる人もいないから、フォロワーの少ないインスタグラムのアカウントに、それっぽいハッシュタグを付けて鞄の写真をアップした。コスメはまだ恥ずかしいが、現時点での私の自意識(美意識、というのもまだハードルが高い)の、ぎりぎり精一杯、最初の一歩というところだ。どこかで繋がって、この本の15人の女たちに届けばいいと思う。