昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

官僚のハートを一瞬で掴んだ田中角栄「伝説のスピーチ」とは――池上彰が語る“角栄像”

池上彰「“戦後”に挑んだ10人の日本人」

2019/01/15

 池上彰さんが戦後日本の代表的人物を選び、彼らを通して「戦後」を読み直す、連続講義「“戦後”に挑んだ10人の日本人」 。毎回受講生を募り、文藝春秋にて公開授業として実施しています。

 今回はそのなかから、「田中角栄」(第1回)の講義の様子をご紹介します。

平日夜19時から夜間授業として行っている ©文藝春秋

◆◆◆

「2018年に生誕100年を迎えた角栄」

 皆さんこんばんは。夜遅い時間に大勢お越しいただきましてありがとうございます。 きょうは田中角栄という人を取り上げます。しかし、今、なぜ田中角栄なのか?

 昨年5月4日は生誕100年ということもあって、折に触れて角栄待望論が唱えられました。総理大臣になったときには「今太閤」ともてはやされ、金脈問題が出ると大変なバッシングを受け、総理大臣を引退した後も、田中軍団の影の黒幕として政治を牛耳った田中角栄。亡くなった後も、彼が『日本列島改造論』で提起したいろんなプロジェクトが現在まで続いています。

 考えてみれば、そうして戦後のかたちを作ってきたのは、実は田中角栄ではないのか、ということで、今ますますその人物が高く評価されるようになってきているわけです。

 田中角栄という人は、その時々によって評価が異なるんですね。その毀誉褒貶をこれからお伝えしようと思います。そこからどのような評価を下すかは皆さん方にお任せすることにします。田中角栄の毀誉褒貶については、文藝春秋も一定の役割を果たしている。そのことも含めて、因縁のあるこの文春ホールでお話しできればと思っています。

1918年5月4日生まれの田中角栄 ©文藝春秋

大蔵官僚を前に「すべての責任はこの田中角栄が負う」

 まず、田中さんの人心掌握術がいかに優れていたかを示すエピソードをひとつ。1962年、第2次池田内閣の大蔵大臣に就任して居並ぶ大蔵官僚を前にあいさつをした、そのあいさつ文が記録に残っています。

「私が田中角栄であります。皆さんもご存じの通り、高等小学校卒業であります。皆さんは全国から集まった天下の秀才で、金融、財政の専門家ばかりだ。かく申す小生は素人ではありますが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきており、いささか仕事のコツは知っているつもりであります。これから一緒に国家のために仕事をしていくことになりますが、お互いが信頼し合うことが大切だと思います。従って、今日ただ今から、大臣室の扉はいつでも開けておく。我と思わん者は、今年入省した若手諸君も遠慮なく大臣室に来てください。そして、何でも言ってほしい。上司の許可を取る必要はありません。できることはやる。できないことはやらない。しかし、すべての責任はこの田中角栄が背負う。以上!」

 これを聞いた大蔵官僚たちは、一発で参ってしまいました。君たちは自由にやれ、責任は私が取る、と言われて心酔しない部下はいないでしょう。さあ、今の政治家に、こう言い切れる人はいるのだろうかと、つい考えてしまいます。

首相になるまで郵政大臣、大蔵大臣、通産大臣を歴任した ©文藝春秋

 1965年、前年からの証券不況の中で山一證券が経営不振に陥りました。その救済のために日銀特融、日銀による特別融資が行われました。それを断行したのが大蔵大臣の田中さんでした。官僚であれば、過去に例のないことはやりたがらないものです。それを田中大臣は「いいからやれ。責任は俺が取る」と言って救済させました。先の就任あいさつはハッタリでも何でもなかったことになります。

 田中角栄は「コンピューター付きブルドーザー」の異名で、数字の暗記力や強引なまでの実行力が称えられました。総理大臣に就任したのは1972年の7月。当時54歳で、のちに安倍総理が誕生するまでは最年少の総理大臣でした。