侍ジャパンで中心となっている菊池涼介(中京学院大)や秋山翔吾(八戸学院大)、西武のリーグ優勝に大きく貢献した山川穂高、外崎修汰、多和田真三郎(富士大)ら東京六大学野球や東都大学野球だけでなく地方の大学からも優秀な人材が次々に輩出されて活況を見せている近年の大学野球界。全国大会の上位進出もまったく珍しいことではなくなった。
その中でもここ数年存在感が際立つのは中国地区大学野球連盟だ。一昨年には近藤弘樹(岡山商大→楽天)が連盟所属選手として初めてとなるドラフト1位指名され、昨年は春に徳山大が全国8強入り。秋には4年連続出場の環太平洋大が2年連続8強、前年4強を超える準優勝まで駆け上がった。
そんな活況を呈している連盟を約40年にわたり支えている岡田麻里さんという女性がいる。亀澤恭平(中日)ら叱りつけられた選手・マネージャーは数多く、酔っ払いのチンピラを力づくで球場から引っ張り出して「あんたみたいな姐さんは初めてじゃ。惚れた!」と逆に求愛された――。などなど、そんな逸話と大きな瞳の迫力は「女帝」とも表現できるが、深い野球愛に包まれ周囲からは「まりさん」と親しみを込めて呼ばれている。
野球人生の始まり
野球と切っても切れない人生となったきっかけは1人の高校球児だった。小学6年(1971年)の夏休みに父の母校である岡山東商のエースだったケネス・ハワード・ライト(のちに阪急で引退)の姿に心を奪われた。
「全身の血が入れ替わったかのような感動を覚えました」
そして同校のマネージャーになりたいがゆえに「実家が商売をしているから」という理由を取ってつけ、周囲を納得させて進学した。ところが当時は「女子マネージャーは採用していない」と門前払いされて願いは叶わず。ソフトボール部でプレーした。
商業科であったこともあり、同じ県内の岡山商大に進学したが、高校時代の不運が転じたかのような幸運が転がってきた。その年に同大は初代女子マネージャーを募集していた。それを入学直後のオリエンテーションで知り、部室に走ると、行動の早さもあり採用に至った。
さらに4年時には連盟の再編により事務局が岡山商大に移り、連盟の運営を担うことになった。当時の事務局長は少林寺拳法部のOB。「分からないことは麻里ちゃんに」との助言を受けていたこともあり、ことあるごとに頼られた。ただある時、導火線に火がついた。
「アナウンスも大会運営の大切な仕事なのに、途中で代われなんてどういうことですか! 用事があるんなら放送室に来て下さい! いちいち呼ばないで!」
誰が相手でも怯むことはなかった。在学中は下級生同士の喧嘩に割って入り、気づけば自らの拳でその場を収めたこともあった。そして喧嘩の後には、必ず余計に信頼は深まっていた。そんな人柄も慕われ、卒業後も事務局を手伝うことになった。
そして30代の後半に差し掛かったころ、事務局長が婿養子で岡山を離れなくてはいけなくなると「お前以上にこの連盟を愛してる奴はおらん。後任をぜひ」と依頼された。
それまでは麻里さんが覇気のない運営の学生に対し「何やっとんじゃ! やる気ないなら帰れ!」と怒鳴ると、後から事務局長が「なんで麻里さんにそう言われたか分かるか」と優しくフォローする名タッグ。「お前は自由にやれ。ワシが責任とってやるから」と言われていた。
叱り役がトップとなる抵抗に加えて、当時は野球界に女性は今よりもうんと少ない状況。前途多難なのは明らかだった。それでも監督たちが「僕たちが協力しますから」と言ってくれたこともあり就任した。
「女にその仕事ができるのか?」と言われたことや嫌がらせもあった。「なにくそ」とより仕事に邁進したが、「お前は母校を贔屓しとる」と謂れのない非難を他の役員から受けた時は我慢ならなかった。
「私がアウトをセーフにできたりするんか? なぁ、誰がそんな事言ってんだよ? ここに連れてこいや! あんたが一人で言うてるんだろうが」
あまりの怒声に別室にいた監督たちが「どうした? 外にまで声が響いとるよ」と心配してくれて、麻里さんに加勢してくれたこともあった。「連盟のために」と骨を砕いている真摯な姿勢は、現場の監督たちが一番知っていた。
そうしてまた信頼関係は強いものとなっていく。その繰り返しだった。