幕末の動乱期に強い存在感を示した孝明天皇が慶應2年12月25日、西暦でいえば1867年の1月30日崩御した。天保2(1831)年生まれの数え年で36歳。弘化3(1846)年、父・仁孝天皇の崩御にともない践祚して以来、20年にわたる治世だった。
江戸幕府は、嘉永6(1853)年のペリー来航を契機に欧米諸国との通商条約の締結を進めた。これに孝明天皇が頑なまでに反対し、鎖国攘夷を主張し続けたことはよく知られる。おかげで天皇は、幕府に抵抗する勢力や尊王攘夷、民族意識の膨大なエネルギーを結集する核となった。だが、これがもし、幕府の求めたとおりに天皇が条約締結を勅許していたのならどうなっていただろうか?
仮に条約締結にあたり幕府と天皇が一体化していたのなら、反幕府運動・攘夷運動の高揚により朝廷も幕府もろとも倒され、「その千数百年の歴史にピリオドを打つという事態も想定される」とは、日本史学者の藤田覚の見解である。藤田はまた、孝明天皇が幕府とともに外圧に屈していれば「攘夷運動の膨大なエネルギーの結集核が不在のため、長期に内戦状態が続き、植民地化の可能性はより高かったのではないか」とも書く(藤田覚『幕末の天皇』講談社学術文庫)。
もっとも孝明天皇は、政治を幕府に委任(大政委任)する江戸時代の天皇の枠組みにあくまで固執した。異母妹・和宮の将軍・徳川家茂への降嫁を幕府より求められたときも、天皇が元来主張する公武合体のためと説得され、苦渋の末に応じている。しかし倒幕と王政復古をめざす流れが強まっていくなかで、孝明天皇の存在はしだいに大きな障害となっていった。そこへ来ての急逝だっただけに、いまなお毒殺説をはじめ多くの疑問が呈されている。
孝明天皇の崩御のあと、2月13日(慶應3年1月9日)には天皇の第2皇子の睦仁親王が16歳にして践祚する。のちの明治天皇である。ただしその践祚をもって元号がすぐに明治に改められたわけではない。
平安時代以降、皇位継承の年に先帝の元号を改めるのは非礼であるとしてこれを避け、改元は翌年に行なうのが原則となっていた(後藤四郎「元号」、『世界大百科事典』平凡社)。明治改元が孝明天皇の崩御の翌年となったのも、それを踏んでのことである。この間、幕府から朝廷への大政奉還、さらには戊辰戦争の勃発と時代は大きく動いていく。明治天皇の治世が事実上始まった西暦1867年はまさに「明治ゼロ年」と呼ぶにふさわしい。