「満点の母親」を目指して疲れ切ってしまう
人生相談の悩みを聞いていると、今のお母さんたちは最初から「満点の母親」であろうとする方が多いように思う。家や学校ではお母さんとして人に褒められようとしているし、働いている人は職場で社会人としてもきちんと認められるように頑張っている。あっちでもこっちでも満点を取ろうと、もしくは、はみ出さないように文句を言われないように気を遣って、みんな疲れ切っているような気がしてならない。子供に自分の理想や期待を押し付けるのもナンセンスだが、自分という人間にまで自分の理想や期待・妄想で自分自身を縛ってしまっているのだ。
出来ないことは「ダメだこりゃ」と笑ってもいい
女性は出産が終わったらすぐに「お母さん」という称号を与えられる。しかし、産んだからといって、すぐに定義づけされたお母さんのマニュアル通りに動けるはずがない。日々子供と接しながら「母」としても成長していくわけだが、リョウコもそうだったけれど仕事をしながら母親業を全うするのは本当に難しい。しかし、そこで背伸びして、理想の母親の型に自分を当てはめようとするのではなく、母親が子供の前でも堂々と「未成熟」な部分を出していった方がいいと私は思うのだ。親だってなんでもできるわけじゃない、ということをメソメソせずきっぱりと、できればドリフのコントのように「ダメだこりゃ」と笑いをまぶすくらいの勢いで子供に伝えればいい、そんなふうに思うのだ。
リョウコの場合は、料理が苦手過ぎて私の弁当箱にマーガリンと砂糖を塗った食パンだけをギュウギュウに詰めたりするものだから、「ダメだこりゃ」と私は弁当作りの担当を剥奪して、毎日自分で満足いく弁当を作るようになった。また、ペット禁止の団地に住んでいた小学生の時、リョウコは自分が拾ってきた犬をどうしても見捨てられず、団地中の人を説得してうちの窓の下で飼ったこともあった。逆に私たちの方が「内緒で飼って見つかったら追い出されるよ」と母を説得したが、結局一緒に団地を回って許可を取ったのだ。母親らしさは全然ないけれど、でも動物を見捨てられない気持ちを思うと、怒られたら怒られたでまあいいかと、こちらがそういう気持ちになった。
自然に育った自立心
この頃、リョウコは小学生の私たちを育てつつ、北海道中を演奏家&ヴァイオリン講師として回っていて、仕事と生活との両立が大変そうなことは子供心にもひしひしと感じていた。リョウコはもともと生き物が大好きなのだが、頑張って生きている小さな生き物を尊ぶ感じも、動物を可愛がる様からも、リョウコがまるで弱くて小さい自分たち家族を小さな生き物に投影しているように見えてきて仕方なかった。大好きな音楽に打ち込むことの素晴らしさや暮らしていくことの大変さが切実に伝わってきたし、だから、私たち姉妹も淋しさをなんとか我慢して母を支えたい、と自然に自立心が育ったと思う。
母という立場の人しか教えられないこと
見本となるような「母親らしさ」はそれほどなくとも、音楽への愛情や、そういうリョウコの普段の自然な振る舞いから、母という立場の人しか教えられないことをリョウコは私たちにちゃんと教えていたと思うし、私たちもそれをちゃんと察知していたと思う。母親だって、変に背伸びせず、自然にしていればいい。親が親自身のいい部分も未成熟な部分も含めて等身大の自分と向き合って、自分がどういう人間なのかわかっているということを子供にきちんと見せることが大切なように思う。その上で、親子で、家族で、そして地球の上で共に生きていく「同志」になるのだ。