子どもを育てていると、自分の人生を追体験しているかのような錯覚を覚えます。

 まあ、半分は自分でできているわけですし、なにかしでかすたびに「ああ、そういうことをやって親父に怒られたなあ」という甘酸っぱい記憶と、なにかやらかした息子に「やめろよ!」と怒る自分にかつての親父をダブらせるのであります。何しろ気まぐれな江戸っ子で典型的ジャイアンツ親父かつビートたけしのファンという、そんな父親に育てられれば口が悪くなるのも仕方がないと思います。

個性豊かな三兄弟

 現在、拙宅山本家には三人息子がおりますが、三人ともどう見ても理系野郎で日がな宇宙の話をしたり、顕微鏡を覗いたり、飼っているイモリの世話をしたり、買い込んだ化石コレクションの手入れをしたりしています。掃除とか片づけとか一切してくれません。どうしてこうなった。

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 先日、食事の際に「もしも弟や妹が生まれたらどういう名前を付けるか」という話題になったときに大喜利が始まり、最終的に長男が名付けた「山本デオキシリボ核酸」という名前が大賞を取りました。意味が分からない。キラキラネームのレベルさえも超えていると思うんですが。次男は次男で「山本カイパーベルト天体」であり、いや、それすでに名前として成立してないから。

物理的に、育児で手が回らないのです

 私もなるだけ家族のために時間を取っていますし、そもそも三兄弟いろいろ用事があるたびに大人が駆り出される以上は、ある程度マンツーマンで家族総出のお付き合いをしないと成立しません。物理的に、育児で手が回らないのです。これはもう、子供が増えたからには仕方がないところではあるのですが、愚直で泥臭く働くブルドーザーのような甘えっこ長男、軽快な切れ味が性分のスポーツカー的な次男、硬軟自在で気配りのできるハイブリッド三男という感じで、各々個性や持ち味が違います。とりあえずみんな国立科学博物館に足を向けるのが好きなのですが、成長するにつれて、同じ博物館の展示物でもみんな見たいところが違ってきます。

上野にある国立科学博物館。巨大なシロナガスクジラが目印 ©iStock.com

 そうなると、俄然家の中では「何を知りたいか」「何処へ行きたいか」というマウント合戦が始まります。まあ、みんな個性が違えば興味対象も変わるわけですから、当たり前のように揉めるんですよね。一人っ子として育った私は、自分の意見が通ることが当たり前に育ってきました。そんな私の幼少時代には体験しなかった激しい兄弟喧嘩を見て、親として困り果てつつ、兄弟のいる羨ましさというものも同時に感じます。少なくとも、歳の差はあれ同じレベルで会話して揉めている三兄弟を見ると孤独を感じて育つことはほとんどないだろうと思うと、それだけで人生の彩りが豊かになるんじゃないかと思うのです。