思いを込めて使われていた場所は人格を宿す
2階で展示しているのは、吉開菜央。奥の部屋では映像作品《静坐社》を上映している。大正時代に、「岡田式静坐法」なる健康法が流行した。姿勢を正して呼吸を意識するのが肝で、本拠を置いていた京都の家が数年前に取り壊されることとなった。
吉開はその引越しを手伝うかたわら撮影もして、作品化した。岡田式静坐法が実践されていた家のなかには、過去にここで吸って吐かれた呼吸の息吹が堆積して残っていた。その痕跡をそっと拾い上げる手つきが、そのまま映像になっている。なんらかの思いを込めて使われていた場所は、いつしか人格を宿すのだなと感じさせる。
手前の小さい部屋では、《Wheel Music》なる映像作品が流されていた。彼女が6年間撮り継いでいる自転車シリーズの新作。カラカラカラカラ……と鳴り続ける車輪の回転音が、穏やかな街の光景を印象深くしてくれる。
「時間は何の為にあるのでもなくて」
3階には、西村有のペインティング作品が並ぶ。誰しもどこかで目にしたことのあるようなシーンを、さらりと描き出すのが西村の作風。無造作に見える筆触の一つひとつが、なぜだかたいへん雄弁で、観る側の心の奥深いところに眠っていた思い出を掘り起こしてくれる。
どの階もささやかな展示なのに、呑み込むのに時間がかかって、ついじっくりと見入ってしまう。それぞれに特有のときが流れているなと強く感じる。
かつての文豪・吉田健一に『時間』という著書があって、
「時間は何の為にあるのでもなくてただあるので時間が含む一切のものも何の為にあるものなのでもない」
と書いているのを思い出す。何気なく過ぎていく時間の味を噛みしめるのでなければ、生きている甲斐もないし、その意味もわからないぞということに、改めて気づかされるのだった。
そこにだけ流れる「とき」があり、異次元の空間が立ち現れている好展示だ。