世の新刊書評欄では取り上げられない、5年前・10年前の傑作、あるいはスルーされてしまった傑作から、徹夜必至の面白本を、熱くお勧めします。
◆ ◆ ◆
木村の前に木村なく、木村のあとに木村なし。
全日本選士権十三連勝という大記録を樹立し、十五年間無敗を保った最強の柔道家。それが木村政彦だ。にもかかわらず木村は、柔道史上では抹殺された存在である。プロレスラーに転向し、力道山と不穏な試合をやって一方的に潰されたためだ。『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』は、自身も柔道家である増田俊也が、木村の名誉回復を願って書いた大河ノンフィクションである。
木村の父親は川の砂利取りを生業にしていた。幼時からそれを手伝うことで政彦少年は筋骨逞しい肉体を得たのである。本書の前半は、貧しい家の生まれであった木村が柔道に打ち込むことで才能を開花させ、運命を切り拓いていくさまが描かれる立志篇だ。
「三倍努力」を標榜し、他人には真似できない量の練習を重ねた木村が超人の如き存在になっていく過程は圧巻であり、強さを追究する姿勢の美しさには嘆息を禁じ得ない。
柔道界は近代日本の歩みと無縁ではなく、特に敗戦によって針路を大きく捩じ曲げられた。木村もまた、歴史のうねりに運命を翻弄された一人なのである。戦後の木村は格闘家として南米に渡るなど数奇な人生を送った。特筆すべきは、ブラジルでグレイシー柔術の総帥エリオと対戦して破ったことである。
同試合は後半部最初のクライマックスだが、そこから見えてくるのは強さだけではなく、木村という人物の陽性の魅力、誠実な人柄だ。彼の好敵手となったエリオ・グレイシー同様、気づけば読者も木村政彦の熱烈な支持者になっているはずである。これが実話なのか、現実にこんな好漢がいたのか、と驚嘆しながら読み進めた。(恋)