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「透明人間」から「目障りな存在」に? アメリカにおけるアジア系の今

「文化」は愛されても「人」は愛されているのか

2019/03/21

厳しい差別を経験した、西海岸の日系人たち

 先ほど、かつて米国の日系人や、日系人も含まれるアジア人が「透明人間」であったと書いた。そんな日系人やアジア人の米国における歩みを見てみよう。

 アメリカにおける日系人の歴史はハワイと西海岸から始まる。

 1885年、日本からの初の公式移民団943人がサトウキビ農園で働くためにハワイに渡っている。明治維新の時期だ。以後、カリフォルニア州にも日本からの移民が相次ぐ。やがて日系移民へのアンチ運動が起こり、1907年に日本人労働者の移住が制限される。だが、翌年には「ピクチャー・ブライド(写真花嫁)」の渡米が始まる。単身アメリカに渡った男性のために、相手の写真だけで結婚を決めて渡米した女性たちだ。

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カリフォルニア州エンジェルアイランドの移民局で国会議員にパスポートを確認されるピクチャー・ブライドたち ©Getty Images

 その後も反日感情は高まり続け、移民一世は米国市民権を取得できない、土地の購入もできないなど苦労を強いられる。街頭に「白人の土地だ。ジャップは出て行け」と書かれた看板が掲げられることもあった。そして1924年、日本からの移民は全面禁止となった。

 第二次世界大戦中の1942年から1947年まで、西海岸在住の日系人、約12万人が日系強制収容所に収容された。この時期、日系人は日本軍のスパイであるとされ、著名な絵本画家のドクター・スースも日系人を「チビ」「出っ歯」「ブタ鼻」「吊り目」「メガネ」のステレオタイプで描いた風刺画を発表している。

絵本画家ドクター・スースによる日系人の風刺画

 戦後に収容所から解放された日系人は徐々に生活を立て直し、やがて政界にも進出していく。終戦17年目の1962年、ハワイ州のダニエル・イノウエが日系人として初の国会議員となっている。以後、日系人口の多いハワイ州、カリフォルニア州からは議員や知事が選出されていく。2000年にはカリフォルニア州出身のノーマン・ミネタがアジア系として初の閣僚に選ばれている。

表に出ることを好まなかった、東海岸のアジア人たち

 アメリカ政府は戦後も厳しい移民規制を続け、アジア系も含め、新規の移民を受け入れなかった。1965年にようやく移民法の大改正がなされ、以後、世界中からの移民の大流入が始まる。私のように東海岸に住む者が身近に感じるアジア系、日系の移民は、私自身をも含むこのグループだ。

 ニューヨークはハワイやカリフォルニアのように日本からの集団移民を受け入れておらず、従って日系永住者の大きなコミュニティも存在しない。日系企業の駐在員とその家族、留学生、アーティストなどが集まって暮らす地区はあるが、駐在員も留学生も永住者ではない。ニューヨークの日系と、チャイナタウンやコリアンタウンといった大きな永住者コミュニティを持つ中国系、韓国系との大きな違いだ。

 その中国系や韓国系にしてもコミュニティ内部の充足を優先し、かつては政治家として出馬する者はいなかった。ニューヨーク州最大の都市ニューヨーク市は860万人の人口を持ち、全米最大の都市でもある。うち14%に当たる120万人がアジア系だが、ニューヨーク市初のアジア系市会議員が当選したのは2002年と遅く、そのジョン・リュー(現在は州議員)も含め、現在もニューヨーク市にはアジア系の議員は4人しかいない。