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あっけない形で終焉を迎えた近藤ベイスターズ

 9月のある日、目を疑うような見出しがスポーツ紙に躍る。「横浜近藤監督 社長批判」「退団覚悟」「素人が引っかき回すからダメなんだ」「白紙の来季に怒り とまどう大堀社長」(9月22日付報知新聞より)。3年契約の最終年、ここまで若手を育て、戦えるチームにしたのになぜ来季の打診がないのか。しかも水面下では次期監督の擁立の動きがある。俺を馬鹿にしているのか――。近藤監督怒りの爆弾発言だった。「もうおれのハラは決まっている。こんな思いでやってられないというのもある。しかし最後まで戦い抜いてチームの目標だった65勝という数字を突き付けてやりたい」。時を置かずして退団が決定、近藤ベイスターズはあっけなく終焉を迎えた。  

 近藤さんは最後まで手を抜かなかった。辞任発表後の9月27日巨人戦、同点の7回一死三塁で波留がスクイズを2度敢行し、いずれも失敗したものの相手の暴投を誘い、これが決勝点となる。みずしな孝之先生が命名した「ノーアウトかワンアウトでランナーが三塁にいるときスクイズしないと死んじゃう病」をとことん貫き通したのである。怒り、意地、執念。色々と合わない部分はあれど、今までチームになかったものを植え付けてくれた。それでも志半ばでチームを去ることに忸怩たる思いがあったのだろう。最終戦後の記者会見では「欲を言えば、もう一度勝負してみたかった」(10月18日付神奈川新聞より)と悔しさを覗かせた。野球の上辺ばかり見ていたハタチそこそこの若造は、この会見をスポーツニュースで観て近藤さんの思いに触れたのだ。

98年10月9日のデイリースポーツより

 98年10月9日早朝、僕は開いたばかりの駅の売店ですべてのスポーツ紙と一般紙を買い求め、部屋でじっくりと優勝の余韻にひたっていた。この日はどのスポーツ紙も3面、4面まで横浜、横浜だ。そこでふと目にしたのが「古巣・横浜Vの日に ロッテ近藤監督退団」の記事。教え子たちが甲子園で38年ぶりの歓喜の中にあったまさにその日、近藤さんはまたしても不本意な形で監督の座を辞していたのだ。僕は前日の死んでもいいくらいの最高の瞬間を噛みしめながらも、同時に近藤さんのことを思わずにはいられなかった。

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 近藤昭仁さん、安らかにお眠りください。

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