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 私がクイーンとフレディの虜になったのは、1995年の初めこと。フレディの死から4年近くも経ってからだ。実はそれを遡る7年くらい前から私はうつ病を患い、大好きな音楽さえなのか、あるいは大好きな音楽だからなのか、とにかく久しく音楽から遠ざかっていた。しかしふと、音楽が聴きたいと思うようになったのである。少しばかり病状が好転してきていたのだろう。

 そこで何を聴こうかと考えた。元々クラシック好きなので、まずはクラシックのCDを以前持っていたレコードやカセットテープと同様のラインナップで買い揃えた(私が病んでいる間に世の中はすっかり、レコードからCDへと移行していた)。

私の世代ならクイーンではないか

 しかし何かこれまでとは違うジャンルの曲を、と考えたとき、「そうだ、私の世代ならクイーンではないか」と思いついたのである。

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 そうしてまずベストアルバムである、「グレイテスト・ヒッツ」を購入したところ、何と素敵。特にフレディの声や表現が魅力的なことと言ったら!

 歌声を聴いただけでも彼がとても純粋で傷つきやすく、繊細であること、本当はとてもシャイな人ではないかと感じられた。

©getty

 ライヴのパフォーマンスを見ると、それらは確信に変わった。彼は自身の感性と才能のすべてを投入し、「フレディ・マーキュリー」というキャラクターを演ずる。そうしてシャイで傷つきやすいといった自身の本質を克服しているのだ。

「フレディなら仕方ない」

 そんなわけで私は、CD、関連本、ライヴのビデオ、はたまたオリジナルの音源によるカラオケのビデオまでも購入してしまった。そうこうするうちに病状は劇的に快方に向かったのである。

 関連本の中でも特に、フレディの最後の恋人である、ジム・ハットンが著した『フレディ・マーキュリーと私』(島田陽子訳、ロッキング・オン)でフレディの日常を知ることができた。繊細でシャイなだけでなく、子どもじみた、困った部分もあるが、誰もが「フレディなら仕方ない」と許してしまうのである。

 動物行動学研究者の私は、同性愛者、またはバイセクシャルの人々は子を残しにくいのに、なぜいつの時代にも一定の割合で存在するのかという生物学界最大の謎について、研究者たちが挑んだ研究の数々をリサーチしてきた。