雲仙・普賢岳噴火、東日本大震災、中越地震……被災地へのご訪問を長く続けて来られた天皇皇后両陛下。「どうか、頑張ってください」「その後、村のご様子はいかがですか?」――暖かいお言葉が、人々を勇気づけてきた。

 訪問先の人々が心打たれたお言葉や当時のエピソードの数々を、あらためて現地で尋ね歩いた『天皇陛下・美智子さま 祈りの三十年』から被災地訪問の先鞭をつけることになる、「1991年7月10日、長崎・島原へのご訪問」を紹介する。

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38日目、「あまりに早いご訪問」

 東京から飛行機、在来線、フェリーを乗り継いで5時間以上、920キロという距離以上に時間をかけてようやく到着するのが長崎県島原市である。五重五層の島原城の天守からは、雲仙・普賢岳と眉山がそびえる姿を見ることができる。1991年、噴火・火砕流により死者・行方不明者44人、被害建物約2500棟、避難者約1万11000人という戦後最大の被害を出した山である。それからもう28年が経ち、山は今、穏やかな姿を見せている。だがその地底には、真っ赤なマグマが今なお滾っているのだろうか。

 時を経ても、毎年6月3日は「いのりの日」とされている。かつて大火砕流が発生した午後4時8分には、市内全域にサイレンが鳴り響き、市民は黙祷する。夜になると子供たちが灯籠に蝋燭を灯し、冥福を祈る。

雲仙・普賢岳の山肌を猛スピードで落下する火砕流(1991年6月3日)。手前は心配そうに見つめる住民ら ©共同通信社

 天皇皇后両陛下が島原に被災者を訪問されたのは、災害が起きてからわずか38日目、1991年7月10日のことであった。宮内庁をはじめ、気象・治安・警察当局や専門家の多くは当然、反対した。海部俊樹内閣も「今しばらくお待ちを」と引き留めたが、天皇陛下は「どうしても行く」と強い意向を示された。

 昭和天皇が被災地のお見舞いや慰問に行かれる時は、「安全宣言」発令後が通例だった。災害被災地のお見舞いには戦後5回行かれているが、いずれも発生後ある程度の時間を経てから、「復興状況視察のため」であった。天皇が安全宣言前に被災地入りするのは、初めてだったのだ。それだけに周囲の緊張も相当なものだった。

 ご訪問決定に驚いたのは、もちろん迎える側も同様であった。

 当時、九州大学付属島原地震火山観測所所長を務めていた太田一也さん(現九州大学名誉教授)を観測所の旧館に訪ねた。天皇皇后両陛下が島原を訪問されたとき、陛下に状況をレクチャーする立場だった方である。災害時、太田さんは研究者という立場に止まらず、災害対策に奔走していた。ヘリコプターに乗って噴火状況の視察を繰り返し、立ち入り禁止地域を広範囲にするよう提言。避難勧告を無視して危険な地域に残った取材陣や、取材陣を監視・誘導するために残った消防団員らが多数死亡した時には、マスコミの取材姿勢を厳しく非難した。当時の避難活動の中心人物の1人だったのだ。

「被災地訪問の先鞭をつけたのが島原だと言うことは誇りに思います」

 太田さんはいまも旧館の一室で大量の火山標本と研究資料に埋もれ、パソコンの前に陣取っていた。

「天皇陛下とは年齢が一つしか違わず、同じ時代を一緒に生きてきた思いが強いです。前立腺がんを克服しながら、あれほど被災地を訪問されている。私も同じ病気だから、その苦労もよくわかる。被災地訪問の先鞭をつけたのがここ、島原だと言うことは誇りに思います。退位は寂しいけれど、これからはどうか健康第一に悠々自適の生活を送って頂きたい」

 と明るく話してくれた。天皇陛下へのご説明を担ったことはもちろん光栄に思っているそうだが、今なお悔しく感じることもあるという。

 天皇皇后両陛下がやって来られたのは、多くの被害者を出した土石流が最後に発生してから10日しか経っていない7月10日だった。決して活動が終息したとは言えない時期である。事実、前日の9日には上空から観測した溶岩ドームの温度が最高の400度にも達していた。万一、何か起きたら、どうなるのか……。

 そんな緊張感の中、陛下は紺のダブルの背広、美智子妃殿下は千鳥格子のツーピースの爽やかな出で立ちでホテル南風楼にお見えになった。