松井玲奈の『カモフラージュ』は、インフルエンサーの文体ではなく、ハッカーの文法で書かれた小説だ。
もちろん松井玲奈は間違いなくこの社会におけるインフルエンサーの一人である。ツイッターのフォロワーは110万人。これはベストセラー作家百田尚樹氏の3倍を優に越え、日本国総理大臣安倍晋三公式アカウントの120万人に肉薄する数だ。僕のような木っ端アカウントには想像もつかないことだが、毎朝彼女が「おはようございます」と礼儀正しくツイートする、ただそれだけの一文に数千のいいねと数百のリプライが殺到する。
インフルエンサーの私小説ではない
普通、そうしたインフルエンサーが何かを発信する時、100万人のファンが期待するのは彼女が自分自身について語ることである。「私ってこうなの」と松井玲奈が口を開けば100万人が耳をすませる。だから松井玲奈が小説を書くと発表した時、人々が期待したのは私小説、自伝的小説だったはずだ。
だが『カモフラージュ』はインフルエンサーの私小説ではない。それだけではなく、この小説からは松井玲奈に人々が期待する多くのもの、「売れる」「バズる」要素が意図的に排除されている。そこには芸能界の内幕もない。ロマンティックな恋愛もない。あなたを元気にする魔法の言葉も、涙の美談もない。ネットで流行りそうなパワーワードもない。
これはとても静かで理性的な小説である。「鼠の小説には優れた点が2つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ」というのは村上春樹のデビュー小説『風の歌を聴け』における有名な一文で(『鼠の小説』は小説の中で間接的に語られるのみで、村上春樹作品の中では死や性は一貫して重要なモチーフであり続けるのだが)松井玲奈のデビュー作はまるで「鼠の小説」のコードを守るようにストイックに書かれている。
僕が間違っているのでなければ、これは商業的に最もヒットから遠いジャンル、「純文学」と呼ばれる小説のはずである。
文章が新人離れして上手いということもあるし(これについては担当編集者に相当ダメ出しでしごかれたと本人が正直に語っている)短編ごとに適切に文体を変えていく言葉のセンスもある。でも最も目を引くのは、『カモフラージュ』の6つの短編で描かれるのが、芸能人である松井玲奈とは遠く離れた弱く病んだ人々だということだと思う。
彼らの脆弱性を解析し、理解していく
『カモフラージュ』の6つの短編で描かれるのは、芸能人である松井玲奈とは遠く離れた名もなく弱い人々だ。松井玲奈はその心弱い人々が抱える心の影の中に、まるでハッカーがPCのバックドアから忍び込むように侵入し、彼らに同期する。そのコードを小説として記述することによって、物語は遠く離れた街で暮らす彼らの脆弱性を発見していく。彼女のハッキングが目指すのは登場人物たちのシステムの暴露や破壊ではなく、その脆弱性から侵入したウィルスの解析である。