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松井玲奈はなぜバズる私小説ではなく、病んだ人々の静かな物語を書いたのか

インフルエンサーではなく、ハッカーとして

CDB

2019/04/12
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本人は「ホントに自分で書いたの?」と言われることを心配するが……

©文藝春秋

 なぜインフルエンサーである松井玲奈は、小説においてはハッカーのように書くことを決意したのだろう。「ウォーカープラス」のインタビューで、松井玲奈は『今回の小説を「ホントに自分で書いたの?」 って言う人は絶対いると思う』とややネガティブに語るのだが、松井玲奈の名前でプロのゴーストライターに書かせるならもっとセンセーショナルでキャッチーな内容に仕上げるだろう。これは間違いなく松井玲奈自身の生真面目で繊細な文体で綴られた、人間の弱さについての6篇の小説である。おそらくは、村上春樹の小説に登場するあのナイーブな青年『鼠』が書いていた、小説の中の主人公以外は誰も読んだことのない小説と同じ種類の。

 もしかしたら、松井玲奈にとって小説を書くことはアウトプットではなくインプットなのかもしれない。さまざまな他者の弱さ、その光と影に深くハックし同期することで、彼女は自分の言葉を改めて発見し、やがて新しいコードで自分と世界について記述しはじめるのかもしれない。

「そしてその時、象は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう」というのは前述の村上春樹デビュー作の一節なのだけど、いつか松井玲奈が鼠ではなく村上春樹のように、死やセックスについて、そして自分自身について書き始める日が来るとしても、それはたぶん、人を束ねて社会に津波を起こすようなインフルエンサー小説ではなく、彼女らしい文体で世界を深く静かにハックする小説になるのではないかと思う(ちなみに松井玲奈はこの夏に舞台演劇として再構成された『神の子どもたちはみな踊る after the quake』に出演する。)

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言語のマトリックスの世界へ、ようこそ松井玲奈。

『カモフラージュ』には多くの作家、クリエイターから賛辞が送られている。島本理生、森見登美彦、ライムスター宇多丸。彼らは商業的に成功しつつ、日本語を武器に社会をハックすることに挑んできたベテランハッカーたちだ。彼らはたぶん、松井玲奈にしか書けない小説があること、インフルエンサーの認証パスワードを持つものだけがハックできる、難攻不落のファイアウォールがこの社会に存在することを知っている。

©時事通信社

 松井玲奈はこの10年で爆発的に拡大した数百億円規模のアイドルビジネスの中心で、10代からそのすべてを裏側から目撃したこの時代の究極のインサイダーであり、そしてそこから離脱したアウトサイダーでもある。世界的に巨大なバズの津波を引き起こしたインフルエンサームービー『マトリックス』の主人公、トーマス・A・アンダーソン=ネオが体制からの離脱者であるように。

 反体制レジスタンスの船長モーフィアスが、システムの見せる心地よい夢から排除されたネオに語りかける有名な台詞がある。『Welcome to the real world.』ほんとうの世界へようこそ。先輩ハッカーたちが松井玲奈に送るまぶしげな、そして嬉しそうな眼差しは、まるでザイオンの古参戦士が新参ネオを迎えるように、彼らに比べればまだまだ未熟な、歩き始めたばかりの若きハッカーのデビューを祝福しているように見える。

 ようこそ新しい才能。その身体にインフルエンサーとハッカーの2つの矛盾した血が流れる、純文学に現れたネオ。甘美な娯楽産業と新しいネット全体主義に絶望的な苦戦を続ける孤独な文学の戦線で、大衆と文学の分断を結ぶかもしれない新しい小説家。ようこそ小説の世界へ。世界の意味を脳に定義しあるいは書き換え、ある時には人を殺し、ある時には人を生かす、美しく危険な言語のマトリックスの世界へ、ようこそ松井玲奈。

カモフラージュ

松井 玲奈

集英社

2019年4月5日 発売

松井玲奈はなぜバズる私小説ではなく、病んだ人々の静かな物語を書いたのか

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