“平成”という時代を代表する女性の一人が、女優の宮沢りえさん(46)であることに異論はないでしょう。
彼女が、映画デビューを果たしたのが、1988年(昭和63年)に公開された『ぼくらの七日間戦争』でした。当時、三井のリハウスのCMには出演していたものの、女優としてはまだ無名でした。そんな彼女を起用したのはなぜなのか。監督の菅原浩志さんに話を聞きました。
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――宮沢りえさんをキャスティングした経緯を教えてください。
菅原 当時、角川春樹事務所の社長から「ぼくらの七日間戦争」を原作に映画が出来ないか打診され、自分で脚本を書き映画化が決定し、それから主人公になる中学生11人を選んだのですが、なかなかいい子がいませんでした。当時の子役は、劇団で訓練されすぎていて、セリフが時代劇みたいな子たちばかりだったんです。子役と言えば時代劇に出る役ぐらいしかなかった時代でしたから。そこで、とにかくたくさんの中学生に会おうと、合計で1万2千人の子をオーディションしました。私の初監督作品でしたので、気合もかなり入っていました。
――かなり多くの方にお会いになられたのですね。
菅原 11人を選ぶのに、けっこう時間をかけました。「日比野朗」というちょっと太った役の男の子を見つけるのはかなり苦労しました。親の健康管理が良くなっていた時代なので、太った子がいないんですね。そこで食べ放題のレストランの前で張り込んで、コロコロした男の子が出てきたら声を掛けたりもしました。仕舞いには「相撲部屋なら太った子がいるはずだ!」と思って、紹介して貰って行ったのが藤島部屋でした。その時に会ったのが、なんとまだ中学生だった貴花田でした。ただ、顔つきがあまりにも闘志の塊だったので、とても普通の中学生に見えないなと思い、見送りました。りえと映画で共演していたらどうだったんでしょうね(笑)。
――もしかしたら映画が運命的な出会いの場になっていたかもしれませんね。
菅原 そうなんです。太った役の男の子も苦労の末、決まったんですけど、最後まで主人公の「中山ひとみ」役が決まりませんでした。あるとき、当時所属していた事務所の社長さんに紹介されて、りえに会ったんです。いまはなき赤坂プリンスで、“りえママ”こと宮沢光子さんも一緒でした。