三十歳をすぎた頃、人は「深津をほめるおじさん」になりはじめる。
深津をほめるおじさんとしての自分を発見し、深津をほめるおじさんとしての自分に葛藤し、深津をほめるおじさんとしての自分にうんざりしつつも、深津をほめるおじさんであることをやめることができない……。
この記事ではそんな話をしたいんだが、「そもそも深津をほめるおじさんって何やねん」という方が大半だと思われますので、最初に簡単に説明しておきたい。いきなり謎のワードを連呼して申し訳ありませんでした。先走りすぎました。
深津をほめるおじさんというのは、漫画『スラムダンク』に2コマだけ登場するモブキャラのこと。深津という地味な選手のことをほめている観客である。
「深津だ。いつも黒子役に徹する深津のパスがあっての山王工業だ」
目元のしわと、口まわりのひげ、そして妙に断定的な口調。他の観客とは明らかにちがう雰囲気を醸し出している。こういう評論家っぽいおじさん、たしかにいる!
それが面白くて、自分のブログに「スラムダンクの深津をほめるおじさんについて」という記事を書いてみたところ、予想外の大きな反響があった。とくに、「自分も深津をほめるおじさんになりつつある……」という、共感とも嘆きともつかない反応が多かった。それで私は思ったのである。どうもこのおじさんには、普遍的な問題が潜んでいるのかもしれない……と。
ちなみに、こうしてすぐに「普遍的な問題」を見出すのも、深津をほめるおじさん的行為である。
深津をほめるおじさんのままでは感動できない
年をとると、人は深津をほめるおじさん的になる。そのこと自体は悪いことではない。それは「見る目」が鍛えられてきた証拠だからだ。これまで色々なものを見てきた。良いものも悪いものも知った。頭のなかに「評価の基準」もできた。だからこそ、もう簡単には感動しない。派手な表層に惑わされずに、全体の構造を見抜くことだってできる。
こう書くと、なかなか良いことのように思える。では、なぜ人は嘆いてしまうのか? 深津をほめるおじさんになってしまうと、素直に「感動」できないからである。
「深津だ。いつも黒子役に徹する深津のパスがあっての山王工業だ」
このコメントはたしかに頼もしい。しかし、たとえば青空を見上げて次のように言うとどうか。
「曇天だ。曇天の鬱々とした雰囲気が記憶にあっての青空の美しさだ」
ふと空を見上げて言うことがそれか、という話になってくる。美しい青空を見ながら曇り空のほうをほめる。それが深津をほめるおじさん的態度なのかもしれないが、こんなおじさんといっしょに空を見上げたくはないだろう。
あるいは、おじさんが牛丼屋に行ったとする。近くで大学生の集団が「牛丼うめえ~!」と盛り上がっている。しかしおじさんは場を制し、次のように言うことになる。
「紅しょうがだ。どんぶりを鮮やかに彩る紅しょうがあっての牛丼だ」
いいから牛丼を食え、という話である。牛丼屋で細部に注目されても困る。そこはもう、普通に「牛丼うまい」でいいんじゃないのか。
深津をほめるおじさんの恋愛と子育て
さらにおじさんと相性が悪いものがある。「恋愛」である。たとえば深津をほめるおじさんが綺麗なネーチャンを口説くとしよう。その場合、出てくるのは以下のセリフである。
「イヤリングだ。耳もとをさりげなく飾るイヤリングがあっての君の美しさだ」
こんなものは問答無用でビンタである。イヤリングをほめてどうする。そこはストレートにほめるべきではないのか。
さらに向いていないことがある。「我が子の成長」である。深津をほめるおじさんに子供が生まれたとしよう。やがて、ハイハイしていた息子が、はじめて二本足で立つ日がくるだろう。となりでは妻が感動にふるえて泣いている。そこでおじさんは言うのである。
「ほにゅうびんだ。日常的にミルクを供給したほにゅうびんがあっての我が子の二足歩行だ」
こんなものは右ビンタからの左ビンタである。すなわち往復ビンタである。この男は一体、何を言っているのか。我が子の成長を前にしても、ほにゅうびんをほめてしまうのか。そりゃ、ほにゅうびんも役に立ってはいる。しかしこの瞬間くらいは、「全体を冷静に見ること」から離れられないのか。妻のビンタも当然である。
息子の成長にこんな発言をしてしまえば、以後、家庭でのアダ名は「くそヒゲ」、あるいは「理屈ヒゲ」、あるいは「バカほにゅうびん」、妻の言語センスによって命名は変わるが、それが罵倒であることだけは変わらない。深津をほめるおじさんを徹底したときに生まれるのは、「息子<ほにゅうびん」という衝撃の不等式なのである。
みなさんも、深津をほめるおじさんは、ほどほどに。