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ダルビッシュに褒められた ホークスの2年目左腕・田浦文丸が乗り越えた壁

文春野球コラム ペナントレース2019

2019/07/15
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 アツい夏、真っ盛り。今年も甲子園を目指した熱い戦いが各地で繰り広げられています。甲子園出場経験のあるホークス選手は多数いますが、中でも一番多く出場したのはおそらく彼でしょう。

 熊本の秀岳館高校時代、2年春夏、3年春夏と4季連続で甲子園に出場した田浦文丸投手です。

 3年夏こそ甲子園の一大会最多本塁打記録を更新した中村奨成選手(現・広島)率いる広陵に敗れて2回戦敗退となるも、それまでの3大会でチームはベスト4進出。田浦投手も奮闘しました。3年時には、夏の甲子園後に行われたWBSC U-18野球ワールドカップに高校日本代表として出場すると、救援として5試合で12回1/3を投げ、2安打無失点27奪三振の活躍で、日本人唯一のベストナインにも選出されました。そんな輝かしい経歴を持ち、2017年のドラフト会議でホークスから5位指名を受け、プロの世界に飛び込みました。

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4季連続で甲子園に出場した田浦文丸投手 ©上杉あずさ

 そして、今月9日にはプロ2年目にして初の1軍昇格。翌10日にプロ初登板の機会が巡ってきました。4点ビハインドの8回から2回を投げ、パーフェクト投球。試合後には「緊張はしなかったです」と飄々と話し、強心臓ぶりも見せつけました。また、この投球はTwitterを通して海を渡り、あのダルビッシュ有さんにも“凄い”と評されるなど鮮烈なデビュー戦となりました。

 田浦投手の野球人生はなんて順風満帆なんだ!

 ここまでトントン拍子に来ているように感じてしまいますが、この鮮烈デビューがこんなに早く来るなんて実は想像することができませんでした。

 なぜなら、ほんの数週間前の田浦投手は、おそらく人生で初めてといっていい大きな壁にぶち当たっていたからです。

プロに入って初めて経験した挫折

 6月23日、久留米市野球場で2軍戦が行われた日の試合後、浮かない顔をしている田浦投手が箒を持ってベンチを掃いていました。でも、ボーっと同じところばかりを掃いていて、全然ゴミを集められていません。この日は先発の乱調で3回途中から急遽リリーフ。しかし、制球に苦しみ、持ち味を発揮できませんでした。2軍での防御率はその時点で7.17に。良い時も悪い時も動じず、喜怒哀楽を表にするようなタイプではなかったのに、この時は明らかに凹んでいました。

「今、何か余裕がないです。自分でもよく分からないです」

 自身の力不足を痛感し、先が見えなくて悩んでしまっていたのです。そんな姿を見たのは初めてでした。

 前述のような経歴もあり、大きな挫折経験がなかった田浦投手は、“何が足りないのかわからない”“何をしたらいいのかわからない”という状態に陥りました。

「思ったより通用しなかった」

 プロの世界は今までみたいに自分が思い描いていたようには上手くいかない。でも、それを乗り越えなければプロ野球選手としての未来はない。このままではいけない。

 田浦投手は自分なりに模索し、取り組み方を変えました。股関節周りのストレッチやシャドーピッチングをしっかりするようになりました。試合前の準備にも入念に取り組むようになりました。佐久本ファーム投手巡回コーチも「前より考えてやれるようになったし、努力している」と田浦投手の変化を感じていました。

自分なりに模索し、取り組み方を変えた田浦投手 ©上杉あずさ

 そして、あの日以来の2軍戦登板機会がやってきました。7月5、6日のウエスタン・広島戦で共にリリーフ登板すると、計1回2/3を完璧に抑えたのです。

 5日は、7回二死1、3塁のピンチで登板すると、打者はこちらも甲子園のスターで広島のルーキー林晃汰選手。「粘り強く投げられた」と遊ゴロに打ち取りました。悩み期から脱出しようと考え、「高校時代のように意識的にグラブを高めに上げて投げました」と初心に立ち返ってみた結果、見事に抑えることが出来ました。

進学のきっかけは中学時代の「ボロ負け」試合

 また、この試合で女房役を務めた九鬼隆平捕手も「辛抱強く投げろよと話したんですけど、よく抑えましたね」と後輩を称えました。

秀岳館高校の先輩後輩バッテリー ©上杉あずさ

 九鬼捕手と田浦投手のバッテリーと言えば、高校野球ファンの方なら懐かしさを感じて頂けるかと思います。2人は同じ秀岳館高校の1学年先輩(九鬼捕手)、後輩(田浦投手)。高校時代に続き、プロの舞台でも同じチームに所属し、こうして再びバッテリーを組んでいるのです。

 高校時代に甲子園でバッテリーを組んだ2人がプロ入りした例はありますが、広陵/野村投手(広島)―小林捕手(巨人)や大阪桐蔭/藤浪投手(阪神)―森捕手(西武)のようにプロ入り後は離ればなれになってしまうことがほとんど。だから改めて考えると、これってかなり凄いことだなと気づきました。(高校時代、共に甲子園でバッテリーを組んだ2人が、プロで同じチームになって再びバッテリーを組むという事例は、川上哲治さん―吉原正喜さんバッテリー、近藤真一さん―長谷部裕さんバッテリーなど遡るといくつかありましたが、やっぱりレアケース)

 でも、もっと言うと、2人は中学時代からお互いのことを知っている仲。福岡県大野城市出身の田浦投手と大阪府出身の九鬼捕手がどこで繋がったのか。実はそれが田浦投手の現在につながる大事な出来事でもあったのです。

 そもそも、田浦投手がなぜ福岡から熊本の秀岳館高校に進学したのかを聞くと、「中学の頃、ジャイアンツカップの決勝でボロ負けしたんです……」。

 田浦投手は中学時代、福岡の強豪・糸島ボーイズに所属していました。中2の時に出場した全日本中学野球選手権 ジャイアンツカップで準優勝するも、決勝は13-1で大敗。その時の相手こそが大阪の枚方ボーイズで、マスクを被っていたのが九鬼捕手。そして、当時監督を務めていたのが、のちに秀岳館高校で監督を務めることになる鍛治舎巧さん(現・県岐阜商監督)でした。

「枚方ボーイズだけ、みんな立ち振る舞いが違いました」と力の差を見せつけられたという田浦投手。その後、鍛治舎監督が秀岳館高校の監督に就任し、九鬼捕手はじめ、鍛治舎監督を慕う枚方ボーイズのメンバーたちが秀岳館へ進学。1学年下の田浦投手は、他の強豪校からも誘いがありましたが、“自分がレベルアップするためにはこの人たちの中に入っていくしかない”と決意し、プロへの一歩となる道を歩み始めたのでした。

 普段の田浦投手は、「今日の登板で意識したことは何ですか?」などと取材をすると、「えっと......何でしたっけ? 忘れました」とズッコケるようなド忘れをすることも多々あるんですが(笑)、よほど悔しかったのでしょう。人生の分岐点ともなった当時のことをしっかり話してくれました。

 失礼ながら、いつも天然っぽさが溢れていたり、先輩たちからもいじられまくっている印象が強いので、田浦投手の当時の想いを聞けてすごく感激しました。

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