令和の皇后となられ、ご成婚時の輝くような笑顔を、取り戻されつつある雅子さま。
新皇后の半生を徹底取材した決定版『皇后雅子さま物語』(文春文庫)から、新皇后の「あゆみ」を特別公開します。
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ついにハーバード大を卒業 「日本人として、日本で働きたい」
1985年(昭和60年)3月20日、雅子さんが21歳の時に卒論が完成した。タイトルは「EXTERNAL ADJUSTMENT TO IMPORT PRICE SHOCKS : OIL IN JAPANESE TRADE(輸入価格ショックへの外的調整――日本の石油貿易)」。A4判で99ページになる論文である。
当時は日米貿易摩擦が深刻度を増していた。自動車・半導体・農産物・ビデオ機器など、日本からの輸出が増大、アメリカの労働者の不満も高まっていた。彼らが日本製品をハンマーで叩き壊す映像が、ニュースでは繰り返し流されていた。この論文執筆に際し、雅子さんが相談や指導を仰いだのは、エズラ・F・ヴォーゲル氏を始め、元大蔵官僚で経済学者の榊原英資(えいすけ)氏や元東京三菱銀行参与の真野(まの)輝彦氏などだったことは謝辞にも記されている。
論文は、優等賞の「マグナ・クム・ラウデ」を受賞。卒業生1681人のうちこの栄冠に輝いたのは、56人。経済学部ではわずか3人だった。
同年6月、ハーバード大の卒業式が行われた。雅子さんは、シンプルな黒いマントのアカデミックドレスを羽織り、頭に正方形の角帽を被っていた。これで、6年間にわたった米国の生活も終わる。在米の証券会社や金融機関などから就職の誘いがあったが、すべて断っていた。日本の友人に宛てた年賀状にも、次のように気持ちを綴っていた。
〈このままアメリカに残ると中途半端になってしまいます。日本人として、日本で働きたい。外交官になって世界から日本を見て、貢献してみたいです〉
「根無し草にはなりたくない」強い意志で目指された外交官への道
外交官になりたい――意外にも、当時外務省条約局長だった恆さんがその志望を初めて知ったのは、大学卒業を目前にした頃だった。ある日「これからどうするんだ」と聞くと、「外交官になりたい」と言われて驚いた。恆さんは賛成も反対もしなかったそうだ。雅子さんが外交官になろうと思ったわけを、優美子さんはこう語っている。
〈このままアメリカにいれば根無し草のようになる、これは私のアイデンティティの問題だと(雅子さんは)よく口にしておりました。根無し草になるというのも、一つの生き方だとは思います。でも雅子はそうなりたくなかったのでしょう。というのも、私たちの家庭はごく日本的な家庭でございまして、子供は日本人として育てたかったんです。外国で暮らしているだけに、その分、日本人というものはどういうものであるかを、子供たちに教えておきたいと私はいつも思っておりました〉(前出・文藝春秋)