長い海外暮らしが雅子さまにもたらしたもの
海外暮らしが長かったからこそ、日本を意識し続けた小和田家の教育環境で雅子さんは育った。長じるにつれ様々な国の人と接するうちに、自分は何者なのかを考え、日本で日本のために働きたいという揺るぎない思いが湧き上がってきたのだった。
卒業式から1週間後の85年6月、雅子さんは早々に帰国した。目黒区の家は改装中で、家族が住んでいた渋谷区広尾の官舎に取りあえず落ち着いた。家族5人が揃ったのは4年ぶりのこと。雅子さんは「やっぱり、日本がいちばん!」といって、くつろいでいたという。
のんびりしたのもつかの間。雅子さんは翌年6月の外交官試験を目指して猛勉強を始めた。当時、外交官試験は40倍という超難関で、しかも女性の合格者は毎年一人か二人しかいなかった。雅子さんの専攻は、経済学だったため、憲法や細かい法律を一から学ばなくてはならなかった。国際法にしても専門用語を英語ではなく日本語で覚え直さなくてはならないなど、課題は多かった。外交官試験の難しさは、恆さんがいちばんよく知っていたため、「外務省が駄目だったときに備えて、もういちど日本の大学に籍を置いたらどうだろう」とアドバイスした。
「仕事を持って生きることに迷いはありませんでした」
明確な課題が見えると、雅子さんは驚異的な力を発揮する。その一方で、切り替えも早い短期集中型だ。猛勉強の毎日でも、週末には映画やミュージカルなどに、また86年の正月には京都へも出掛けている。
同年4月、雅子さんは東大へ学士入学した。だが、2カ月後には外交官試験が迫っていた。その間、就職先として日本銀行だけは受けていた。後の会見でも「ハーバードでは女性でも仕事を持つのが当たり前でしたから、仕事を持って生きるということに迷いはありませんでした」と話している。おりしも男女雇用機会均等法が施行された年であった。