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父とナゴヤ球場と背番号0 神野純一の記憶

文春野球フレッシュオールスター2019

2019/07/11
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時は流れ……0番との再会

 しかし、中学に上がると私は野球をやめた。続けようかと思ったが、不良だらけの野球部の雰囲気にビビりまくって入部できなかった。間もなく父は、仕事の都合で単身赴任となり、私と父は会って話すこと自体が滅多になくなり、神野の話も、野球の話もすることがなくなった。神野はというと、その後はケガに苦しみ、レギュラーを取るに至らず、あの試合の7年後の33歳で引退した。この頃には、私は大学受験を控えていて、神野のことをすっかり忘れてしまっていた……。

 無事に大学に入学した私は、友人たちとノリで草野球チームを作った。背番号を決める際「何となく人と違ってかっこいいから」という理由で、0番に決めた。この頃には、父は単身赴任から帰ってきていた。草野球をやっているという話をしたときに、父から「背番号は何番なんだ?」と聞かれた。0番だ、と答えたら、父は微笑しながら「おぉ、神野と同じだな」と言った。私はすっかり忘れていたが、父は神野のことを覚えていた。もちろん、あの試合のことも覚えていてくれた。嬉しいやら恥ずかしいやら、むず痒い気持ちになったのを覚えている。何の気なしに決めた0番は、もしかしたら、私があの日の試合、あの日の神野を無意識のうちに追いかけていた証左だったのかもしれない。

 父はこの数年後、病気で亡くなった。54歳だった。奇しくも神野がキャリアの晩年につけていた背番号54と同じだった。神野純一という選手は、父と私にとって忘れられない1日の思い出の中で輝き続けている。そして今、私には4歳の息子がいる。私とこの子にとっての神野純一は、果たして誰になるのであろう。選手名鑑を繰りつつ、そんなことを思う今日この頃である……。

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