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 こうなれば仕方ない。散歩に出かけた全次郎をみんなで大捜索である。「全ちゃーん」といくら呼んでも出て来ない。しまいには「どうした! 全次郎迷子か!?」と近所の人まで巻き込む始末。全次郎もこちらの気配を察しているのであろう。すっかり警戒して、どこかに隠れてしまったようだ。

 こうしているうちに、次の「林ふとん店」に指定された時間が迫ってくる。「みゃーは朝十時半に外にトイレに行くから、出て行く直前を狙って撮って」と言われているため、「理容ノグチ」の店主に「あとで出直します」と伝え、みゃーのもとへと急ぐ。

 十時半、予定通りみゃーが店に出てきた。ところが、パシャパシャと撮っていると、十分も経たないうちにぴゅーっと定位置のダンボールから出て、外へ走って行ってしまった。

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「ああっ! まだメインカットしか撮っていないのに!」

 そんなことはこちらの都合でしかない。みゃーはトイレに行きたかったのだ。ガマンさせてごめんよ、みゃー。

 全二十二軒のうち、八割近くがこんな具合だ。棚の上から降りてきてくれずに後日出直す、ひなたぼっこしながら寝ている猫を起きるまで待つなど、ひたすら猫優先の猫時間。無理をしても彼らに嫌われるだけなので、時間をかけてゆっくりと心を開いてもらう。店主と焼き芋を食べながら、散歩に出かけた猫の帰りを三時間待ったこともある。

 撮影を担当してくれたのは、『週刊文春』や『Number』などで活躍する五名のフォトグラファー。日頃から張り込み慣れしているだけに、猫の張り込みも根気強い。スポーツ選手を撮ることも多く、素早い猫の動きもお手のもの。決定的瞬間を逃さない完璧な仕事ぶりで、素晴らしい写真が上がるたびに編集者と感嘆の声をあげた。

 店主と猫のふれ合いやくつろぎの表情、気持ち良さそうに寝ている姿など、看板猫たちの魅力を余すところなく写真に収めてくれたため、当初の予定よりも写真を大きく、たくさん載せることにした。

「アカシヤ」のチャーのこと

 写真のセレクトを終えた頃、一本の訃報が届いた。「『アカシヤ』のチャーが亡くなった」という。一カ月半前に撮影した時は元気だったのに、本当に? 自分の目で確認するまではにわかに信じられず、喫茶店「アカシヤ」へと向かった。店に入ると、チャーはいなかった。マスターに「チャーは……」と言いかけたあと、言葉が続かなかった。聞くと、撮影の一カ月後に急激に体調を崩し、平成二十三年元日、眠るように息を引き取ったという。享年十七、老衰だった。もとノラ猫だから正確な年齢はわからず、実際にはもっといっていたかもしれない。とにかく本当に、チャーの姿はなかった。

 チャーがいつも座っていたカウンターの席で、めそめそしながらコーヒーを飲んだ。マスターに写真を見せると、常連客が集まって来て、次々とチャーの思い出話を始めた。

「俺なんてチャーの前の看板猫がいた時からこの店に通ってるから、もう二十五年にもなるよ。やんなっちゃうなぁ!」

 と笑いながら写真をみつめる会社員。

「チャーはいつもモーニングのソーセージを狙って、じーっと見つめてはもらっていたの。本当に幸せな猫だったわね」

 と目を細める女性客。

 チャーは天国へと旅立ったが、「チャーのいた『アカシヤ』」の姿を残しておきたいと思い、予定通り掲載することにした。凜とした表情で働いていた“猫のマスター”の姿を想像しながら、ぜひ美味しいコーヒーを飲みに行ってみてほしい。

 

 看板猫のいる店に行くと、やさしい気持ちになれる。「今日はいるかな?」と声をかわすことで、ゆるやかなコミュニケーションが生まれる。「いつまでもこのような店が残ってほしい」。取材をしながら切に思った。この温かくなごやかな空気感を、ぜひ本書で共有していただけるとうれしい。

吾輩は看板猫である (文春文庫)

梅津 有希子(著)

文藝春秋
2015年11月10日 発売

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