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「当面、叙勲を授与したことは公表しない」

 叙勲については、後日談がある。事件後しばらく経って、当時の陸上幕僚監部調査部長の将補が駐日韓国大使館側と粘り強く交渉して、私に保国勲章をもたらしてくれた。それには、大統領の紋章(2羽の鳳凰の間に槿の花)付きの「恩賜の時計」が添えられていた。

 韓国側は、「当面、福山大領に叙勲を授与したことは公表しない」という条件をつけたと聞いた。水面下であったにせよ、韓国国防部が私に勲章を授与したことから判断して、このスパイ事件は、B氏の主張する「大統領・国家安全企画部(KCIA)主導説」が正しいような気がする。

陸上幕僚監部による尋問

 事件が報道された後の、私のことについて話そう。韓国から送られてきた韓国主要紙の一面トップに、自分の名前が韓国語と漢字で書かれているのを見せられた時は、名状し難い複雑な思いだった。私は辞職までも覚悟したが、外務省と防衛庁内局が擁護してくれた。

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 当時の外務省北東アジア課長の藤井新氏(故人)は、「福山さん、あなたがやったことは、国際的には常識の範囲内です。我々は韓国との外交関係を多少損なうことも辞せず、あなたを擁護しますから」と言ってくれた。

安藤隆春氏 ©時事通信社

 また、当時防衛庁内局調査一課長だった安藤隆春氏(警察庁からの出向。後に警察庁長官)も同様に力強く私を励ましてくれた。ありがたかった。

 スパイ事件に対する外務省の対応のみならず、合計5年半にもおよぶ外務省での奉職(北米局安全保障課で2年半、韓国大使館で3年)を通じ、外務省からいただいた格別の厚遇については、今も感謝の念は変わらない。

 これとは対照的に、陸上幕僚監部は冷淡だった。まるで私を犯人扱いするようだった。私の韓国における情報活動や入手した情報の細部などについて、尋問し調書まで作成し、署名・捺印まで求めてきた。

 この事件に対する新聞やテレビの対応は、極めて冷静だった。むしろ、抑制してくれているようにも感じられた。韓国の報道ぶりを引用した、簡単な記事・報道内容だった。私の名前も「F」とイニシャルだけで通してくれた。

 あるいは、これが報道上のルールだったのかもしれないが。このようなメディアの姿勢を、私は、「ソウル戦線」でともに戦った支局長達の、無言の「戦友愛」と受け止めていた。

 国内では、「週刊新潮」のS記者を除いて、一切の取材はなかった。私にコンタクトして来たS記者は、陸上幕僚監部広報室勤務時代以来の友人だった。

©文藝春秋

「福山さん、まさか私の取材を受けるはずがないですよね」

 コーヒーを飲みながらのS記者の取材はこれだけで、後はよもやま話で終わった。

 いずれにせよ、このような経緯で、私は辞職に追い込まれることもなく、予定通り、市ヶ谷の第32普通科連隊長に就任することとなったのだった。


 福山隆氏も参加した「文藝春秋」4月号の座談会、「『日韓断交』完全シミュレーション」では、元韓国大使の寺田輝介氏、韓国富士ゼロックス元会長の高杉暢也氏、同志社大学教授の浅羽祐樹氏、産経新聞ソウル駐在客員論説委員の黒田勝弘氏が登場し、現実的な「日韓のあり方」を詳細に検討している。

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