1993年にフジテレビのAソウル支局長と、韓国国防部の情報将校B海軍少佐がスパイ容疑で韓国当局に逮捕された事件――。韓国メディアの報道によって、その直前まで韓国に防衛駐在官として赴任していた私はこのスパイ事件の“黒幕”とされてしまっていた。

 一体なぜ、このようなことが起こったのか。

軍部主導か、それとも青瓦台主導か?

 私は当初、この事件摘発の背景について、「軍部主導」であると推論し、次のようなシナリオを考えていた。

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 事件摘発当時の韓国では、長い軍事政権が続いた後の初めての文民大統領である金泳三の登場で、韓国軍に対する積年の世論の恨み・反発などが顕在化しつつあった。特に韓国軍に対し、情報公開を求める圧力が高まりつつあった。

金泳三大統領 ©文藝春秋

 私は、韓国軍が情報公開の圧力を回避するための手段としてこの事件を世に出したのが真相ではないかと考えていた。また、摘発のタイミングは、外交官特権を有する私の帰国直後にしたものと考えた。

 しかし、B元海軍少佐はその後、自身の著書の中で、私の見方とは異なった見解――「金泳三大統領と国家安全企画部(KCIA)主導説」を述べている。以下、B元海軍少佐の著書より引用する。

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 背景にあったのは、軍の情報機関と政府の安全企画部との間に深い溝があったという事実です。朴正煕、全斗煥、盧泰愚と続いた軍事政権時代、政府の情報機関である安全企画部は、軍の情報機関(国軍保安司令部)に牛耳られて来ました。

 長年のそうした歪んだ関係は、安全企画部の中に抜き差しならない劣等感を植え付けていたのです。そして、その劣等感に火をつけたのが、金泳三政権の誕生でした。

福山隆氏 ©文藝春秋

 文民政権である金泳三政権になると、安全企画部は露骨な「軍事バッシング」を始めました。しかも、金泳三大統領自身にも軍部に対する劣等感と嫌悪感があって、政治的に軍部を牽制する必要性も加わり、バッシングはエスカレートしていったわけです。

 一方で、軍事政権から文民政権へと移ったことは、軍部の中に不満を燻らせる結果にもなりました。軍部の不満を察知した金大統領は、将来起こりうる軍部の抵抗や反発(筆者注:クーデターなど)が、政権の政治基盤を脅かしかねないと危惧したのですね。

 それに、軍隊経験のない金大統領に「文民出身の大統領」という弱いイメージがあったことから、政治的に軍を掌握しているのだという印象を国民にアピールする必要がありました。

 加えて、軍事政権によって、30年以上にわたり政治的に蚊帳の外に置かれていた金大統領には、過去の軍事政権に対する強烈な報復願望があったのです。この大統領の願望と安全企画部の怨念が、「軍部の粛清」という形になって表れたわけです。

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 ここに綴られているB少佐の言葉を私なりに補足したい。