軍と大統領の熾烈な権力闘争
5・16クーデターで政権を掌握した朴正煕の支配体制を支えたのは、軍の情報機関――陸・海・空軍保安隊(後に国軍保安司令部から機務司令部へと変遷〔KCIC〕)と中央情報部(後の国家安全企画部〔KCIA〕)であった。朴大統領政権下では、KCIAが優位を占めていた。
ところが、1979年10月、朴大統領はこともあろうに、最側近であるはずの中央情報部(KCIA)トップの金載圭部長に射殺された。
これを契機に、1979年10月の粛軍クーデターにより誕生した全斗煥大統領は、朴元大統領を殺害したKCIAに対する懲罰の意味と、クーデター当時自らが司令官(少将)として任じられていた国軍保安司令部(KCIC)に対する愛着からか、KCICをKCIAの上位に位置づけた。
縦割りの行政組織が自己主張する以上に、情報機関同士の縄張り争いは熾烈である。KCICの「風下」に置かれたKCIAの怒りと屈辱が窺い知れる。KCIAは、ひそかに「打倒KCIC」の策を胸に秘め、文民大統領誕生の到来を待っていたのだ。
本来、過去に厳しい弾圧を加えられた金泳三は、KCIAとは敵対関係にあった。しかし、大統領当選後、金泳三は政権維持のためにKCIAと手を組んだものと思われる。そして、金泳三とKCIAの共通の敵で、クーデターをやりかねない、韓国軍とその情報機関のKCICを徹底的に叩いて、「牙」を抜こうとしたものと思われる。
両者は、韓国軍とKCICのメンツを潰す“決め手”として、「日本の駐在武官によるスパイ事件」を国民に曝すことを考えたのだと思う。
つまり、このスパイ事件の本質は、韓国軍対KCIA・金泳三の「権力闘争」であったのだ。A元フジテレビソウル支局長とB元海軍少佐はその犠牲者だったのだ。
叙勲授与式の取り止めは事件の“予兆”だった
今から振り返ってみると、スパイ事件が表面化する予兆はあった。
韓国を去る直前の小さな出来事だった。私は、韓国国防部から「保国勲章」(国家安全保障に明確な功を立てた者に授与する。1~5等級がある)の授与を予告されていた。勲章は、韓国国防部で国防部長官から授与される予定だった。
その直前に、武官連絡室長から呼ばれた。室長は、微塵も違和感を抱かせることなくこう告げた。「国防部長官から『福山大領は、武官団長を歴任されるなど立派な功績を残されたので、私から授与するより、帰国後、防衛庁や外務省関係者も立ち会いのうえ、在日本韓国大使から授与するようにせよ』という指示があった。ついては、国防部における叙勲授与式を取り止めにしたい」。
私も異論はなく、厚意に感謝した。だが実際は、韓国政府・国防部はスパイ事件の立件を水面下で着々と進めながら、私に叙勲を授与しない方策を考えていたのかもしれない。スパイ関係者に叙勲を与えてしまえば、大きな失敗だと世論に指弾されたことだろう。