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連載昭和の35大事件

2019/07/28

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, 政治, メディア, 歴史, 国際

いつの間にか書き換えられた「保安隊の邦人虐殺」の報道

 当時の新聞紙面を見ると、この時期から、戦争が人々の日常の中に入り込んでいっているのが分かる。この年8月に「国民精神総動員運動」が始まったこともあり、各新聞社は競って前線の兵士への慰問袋の提供を読者に訴え、その反応を連日紙面に掲載した。「千人の女性に一針ずつ赤い糸で縫ってもらった白木綿の布を身に着けると弾に当たらない」という言い伝えの「千人針」が、街頭で普通に見られるようになった。「愛国行進曲」や「海ゆかば」などの「国民歌」「国民唱歌」が作られて人々に歌われ、映画の冒頭に「挙国一致」「銃後を護れ」のタイトルが入るようになった。

「満州事変」勃発からしばらくは、日本兵も「銃後」の日本人も「中国兵はすぐ降参する」とたかをくくっていた。しかし、中国軍は想像以上に頑強で、占領地を点と線でしか抑えられない日本軍の兵士は、戸惑いから徐々に焦りと不安を募らせていく。そこに起きた通州事件。焦りと不安は復讐心と敵愾心に変わる。それにはメディアの責任が重い。事件の模様をセンセーショナルに書くばかりではなかった。死亡した警察官や冀東政府職員の「名誉の戦死をする」「万歳」といった遺書を取り上げ、死亡女性を「叛乱軍と奮戦し壮烈なる戦死を遂げた烈女」として礼賛するなどして盛り上げた。「日本の傀儡である冀東政権の保安隊の行為」を「通州の邦人大虐殺」と言い換え、「中国軍の仕業」として書き立てた。それは日本兵ばかりでなく「銃後」の国民にじわじわと伝わった。国内では、ロシア革命後、赤軍パルチザンが日本人を含む住民を大量虐殺した事件になぞらえて「第二の尼港事件」と呼ばれた。

「あゝ惨虐!通州事件」右下が冀東自治政府。左上、日本軍通州守備隊。左下は脱出した女性(「支那大事変写真史」)

『支那膺懲』が高まった「通州事件」が南京虐殺をもたらしたのか?

 事件直後に通州を訪れた加藤久米四郎・陸軍省政務次官(立憲政友会)は帰国後の講演でこう語っている。「駆引、口先で嘘八百を並べると云ふことは支那の国民性だ。日本で正義人道と申しましても、支那人には決して是は分からない。それでありますから、今度の戦さでもそれは十分覚悟してかゝらなければならない」(加藤久米四郎「戦線を訪ねて国民に愬(うった)ふ」)。こうした中国人に対する侮蔑と敵愾心が国民の間に広がって行った。秦郁彦「日中戦争史」は事件を「真相を知らなかった日本国民の中国膺懲熱を煽る好材料として十分に利用された」と指摘。笠原十九司「日中戦争全史」も「日本国民の敵愾心、憎悪心を煽動し、『支那膺懲』熱を高めるために最大限利用された」と述べる。そうした中国人への感情が国民の間に広がり、醸成されて南京虐殺の「素地」になったのではないか。もちろん、虐殺の免罪符にはならないが、私には、日本人の心情の面で、通州事件が南京虐殺の引き金の1つになったように思えてならない。

南京入城

 事件後の10日間、現場処理で通州に入った陸軍大尉(当時34歳)は「当初、中国軍の消極的な戦意を見て、この戦争は1カ月くらいで決着がつくと思っていた。それが8年余りも続くとは、誰が予想し得ただろう。通州で邦人の虐殺死体を目前にして、中国人のただならぬ敵意を感じたあのいやな予感は見事に的中したのだった」と語っている(「決定版昭和史8」)。

本編「通州の日本人大虐殺」を読む

【参考図書】
▽広中一成「通州事件 日中戦争泥沼化への道」 星海社新書 2016年
▽「戦史叢書 支那事変陸軍作戦(1)」 防衛庁防衛研修所戦史室編纂 1975年
▽「日本新聞年鑑1938年版」 新聞研究所
▽「共同通信社50年史」 共同通信社・関連会社 1996年
▽里見脩「ニュース・エージェンシー」 中公新書 2000年
▽「通信社史」 通信社史刊行会 1958年
▽古賀牧人「近代日本戦争史事典」 光陽出版社 2006年
▽江口圭一「日中アヘン戦争」 岩波新書 1988年
▽同「盧溝橋事件と通州事件の評価をめぐって」(「戦争責任研究」所収) 1999年
▽大杉一雄「日中十五年戦争史」 中公新書 1996年
▽田中隆吉「裁かれる歴史 敗戦秘話」 新風社 1948年
▽津田道夫「南京大虐殺と日本人の精神構造」 社会評論社 1995年
▽橋川文三編著 「日本の百年7アジア解放の夢」 ちくま学芸文庫 2008年
▽古屋哲夫「日中戦争」 岩波新書 1985年
▽加藤久米四郎「戦線を訪ねて国民に愬ふ」 東京朝野新聞出版部 1937年
▽秦郁彦「日中戦争史」 河出書房新社 1961年
▽笠原十九司「日中戦争全史」 高文研 2017年
▽「決定版昭和史8 日中戦争勃発 昭和12~13年」 毎日新聞社 1984年

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