戦慄!凄惨!血に飢え、たけり狂った冀東軍の200名の日本人居留民虐殺事件を当時同盟記者として生き残った筆者が発表
初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「通州の日本人大虐殺」(解説を読む)
「通州に何事か起きた!」立ち上る黒煙に”冀東保安隊の寝返り”
昭和12年7月29日。北平(今の北京)の城壁の上に立った市民は東方、城門の向うに、ウッスラ白煙の動くのを見た。やがてそのうす煙りは、黒いかたまりとなり、一条の大きな円柱を作って高くのぼっていった。北平の東で目ぼしい所といえば、まず、30キロ程の先の通州である。通州に何事か起きた! 市民はすぐにそう直感したことであろう。それほど北支は、日本軍と宋哲元軍の衝突の結果蘆溝橋事件とか広安門事件とか続出の騒然たる物情であった。通州の異変と判断しても、それがどんな状況や真相なのか、その朝、北平の日本人で誰も分ったものは1人としていない。外人新聞記者が駈けつけて来て質問をしたので、通州と電話連絡をとろうとしたが、受話機はうんともすんとも石のように音はしなかった。市外との電線は切断されていたのである。
北平の軍当局へ第1報がついたのが、31日の朝だと云うのだから、その頃の北平が、どんなに、てんやわんやだったか想像がつくのである。
実は通州ではたいへんなことになっていたのである。29日午前4時頃から闇をひき裂いて銃声がなり始めていた。北平で、はるかに見てとった、おびただしい煙りのその下では、何ぞ思いもかけない冀東政府保安隊が叛乱を起して、日本居留民虐殺と云う大それた仕事に、とりかかっていたのである。
当時通州にいた日本人は約300名、なかに多くの韓国人も交っていた。たまたま筆者はその時、この業火のなかにあった。生と死の間を、紙片の様に往来していたのだ。奇蹟のように虎口を脱し、北平の城郭へ、辛うじて辿り、始めて詳しく「通州虐殺事件」の真相をニュースとして送り出したのだった。日本人約300名のうち、あとで生存と発表された者は、たしか131名だった。何しろ人の動きの激しい時のことだから犠牲者の数字は明確につかみようがない。ともかく200名以上は惨殺されたといってよいだろう。冀東政府といえば、北平に公署をもつた宋哲元の冀察政務委員会よりは、親日性格の強い政権であった。しかも冀東政府長官殷汝耕氏は、日支提携協力論者として強い信念の人であった。だから日本軍も冀東保安隊には信頼をおき、軍事上も通州は安全な後方地帯と考えられたものらしい。兵站基地として、蘆溝橋事件以後は、武器弾薬がうんと送りこまれて来た。29日の朝、魔の報せとなった通州上空の黒煙も兵営広場に積み上げられていた石油ドラムの山に砲弾があたって燃えさかる煙だったのである。皮肉な話である。親日と信じこまれていた冀東の保安隊が「寝返り」を打ったのである。