”裏切り”がなければ通州の悲劇は生れなかったのか
さて、それではこの惨劇を起した通州事件の原因、真相とは何であろう。
友軍の間柄だった冀東保安隊は一夜にして寝返り、ところもあろうに一番安全地帯だと信じられた通州に、日本人虐殺事件を起したのだ。そこで当時おきていた数多の前後の事情のうち、第一にあげねばならないものは、冀東保安隊幹部訓練所爆撃事件である。これが日本軍の手でやられたと云うのだから、驚いたものである。これが少くとも直接の原因だったといってよい。事件前々日の、27日、日本軍が通州の宋哲元軍兵舎を攻撃した。その時一機の日本軍飛行機は、どうしたものか、宗哲元軍兵営でなく、冀東兵営を爆撃した。冀東兵営には冀東政府の旗、五色旗がひるがえっていた。
びっくりした冀東兵営はさらに標識をかかげて注意をうながしたがそれにもかかわらず、爆弾はそれからも落されたのだ。死傷者も出た。憤激し切った保安隊幹部がすぐに当時の陸軍特務機関長だった細木中佐に抗議したのはいうまでもない。慌てたのは同中佐と殷汝耕冀東政務長官である。保安隊の幹部連はそのころにはもう、いや気がさしてちりぢりに飛び出していたので殷長官がこれを一カ所に呼び集めるのに一苦労だったと云う。2人は百方言葉をつくして釈明につとめたが結局日本軍の誤爆によるものというその一本槍のほか、説明のしようもない出来ごとだった。あとで聞いたところでは、この日本軍の飛行機は、天津や北京から来たものではなくて、朝鮮から飛んで来たものだともいわれた。地上戦闘と飛行機の連絡がまずかったものか、出来なかったものか、それとも冀東兵営と知りながら狙ったものなのか、その辺のところまで来ると当時の状況については、ついにその後も分らずじまいにされている。
ともかくこの爆撃事件が冀東保安隊の寝返りにふんぎりを与えたことは事実のようだ。この爆撃事件がなかったならば通州事件の惨劇は生れなかったということと、この爆撃事件を起したものが通州事件の張本人だという人もいる。
日本軍も追及した「通州事件の責任者は一体誰なのか」
冀東政府の主人公殷汝耕長官は保安隊叛乱の渦中にいてどうしていたか。彼は前夜深更まで細木特務機関長と政府建物長官室であったのち、間もなく29日午前2時頃叛乱部隊の侵入を受けて、そのまま行動の自由を失った。細木中佐は宿舎への帰途、政府附近の道路上で戦死している。特務機関副官、甲斐少佐は自分の事務所前で多数の叛乱兵と切りむすび、白鉢巻姿で仆れた。
叛乱の主力部隊は保安隊第一、第二総隊であった。城内を荒らしまくった叛乱軍は殷長官を引立てて通州城外へ出た。行き先は北平であった。叛乱軍は北平にはまだ宋哲元軍がいるものと判断したらしく、殷長官を捕り物にして、宋哲元軍に引きわたし、同軍に合流をはかろうとしたのらしい。だが宋哲元は日本軍の28日正午期限の撤退要求のため29日未明には北平を出て保定に向っているので、叛乱軍が安定門についた頃にはもう北平にはいなかった。叛乱軍は一たん城壁の外側にそって門頭溝へ向ったが、このへんで日本軍にぶつかり攻撃をうけ部隊はこの戦闘でいくつかに分散した。
そこで殷長官は安定門駅の駅長室から今井陸軍武官に電話をかけ、救出された。長官を手放した保安隊は附近をうろうろしているうちに間もなく同じ城門外にあった日本人の手で、おとなしく武装解除された。それを見ると全部が全部悪党ばかりでもなさそうな所もある。
通州事件の責任者は一体誰なのか、日本軍は当然その問題にぶつかった。そのころ天津軍は今井少佐に対し殷氏を天津軍に引渡すよう要求していた。少佐の気持は反対だったようだ。しかし結局はそうなっていった。
殷氏の躰は六国飯店から日本大使館のとなりの日本軍兵営の中にある憲兵隊の一室に移され、ここでしばらく不自由な日を送るとやがて天津へ護送され、天津軍憲兵隊本部に監禁された。北平の憲兵隊にいたとき、殷氏は、関東軍の板垣陸軍参謀長、東京の近衛公へ通州事件がどうしておきたか、その経緯をしたためた手紙を書いて、これを殷氏夫人、(日本人)たみえ夫人の実弟にあたる井上氏に托し新京と東京とへ、飛ぶように依頼している。だが井上氏もまたある日、憲兵隊に足を入れたまま行動の自由は奪われてしまった。そこで殷氏の手紙も井上氏のポケットから憲兵隊にとりあげられてしまった。