文春オンライン

連載昭和の35大事件

無残……日本人虐殺の「通州事件」はなぜ起こってしまったのか?――生き残った記者が激白する地獄の現場

いつの時代でも、恐しいのは狂った政策である

2019/07/28

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, メディア, 国際

中国の戦犯として銃殺された殷汝耕の最期

 天津憲兵隊の訊問はその年の暮まで続いた。半年近い獄生活ののち12月27日、当時、訊問に当った太田憲兵中佐は本部2階の一室に殷氏と井上氏。そのほか3名の冀東政府中国人職員の5名を前に、「天皇陛下の命により無罪」と言ったそうだ。

 この被告生活のうち、それでもただ一つ、温い場面があった。たみえ夫人は、通州虐殺事件の時には、天津にいて難をまぬがれたが、その後、重病になり、もう絶望という時期があった。同じ天津にあっても、病院にねて、動きもとれぬ間、太田中佐は殷氏をソッと連れ出して瀕死のたみえ夫人の病床におくりこんだ。たみえ夫人は奇蹟のように、その後恢復にむかい、18年後の今日、殷氏は南京の中山陵附近の募地に眠り、たみえ夫人は、日本に余生をおくっている。

©iStock.com

 通州事件後政界から姿を消していった殷氏は北平で終戦の年の12月5日の夜、団民政府の要人載笠氏の招きで宴会に出たままその場で捕われ、多くの当時の親日政客と同じように、北平の北新橋監獄に送られる身となった。そして民国36年(昭和23年)12月1日中国の戦犯として南京で銃殺され、59年の生涯を閉じた。たみえ夫人はちょうどその一年前、北平から南京へとび、獄舎に10日間ほど物を運び、つきぬ話をしてきた。それが殷氏との最後であった。

ADVERTISEMENT

いつの時代でも、恐しいのは狂った政策である

 殷氏が南京高等法院の法廷で述べた陣述のうち、冀東関係の部分に「自分が作った冀東政府は当時の華北の特殊な環境に適応したもので、当時華北軍政の責任者宋哲元の諒解をえていた」と記録されている。獄中ではもっぱら写経をこととし「十年回顧録」も書いた。長衫皮靴のこの文人の、仏弟子となり最期は悠々として立派なものだったことは、その忠僕、張春根さんが、墓石を据えたあと、北京のたみえ夫人に、伝えた話をきけば明らかである。

 夫人には南京で会見の折り日華の提携の必要をあくまで説き、最後の死刑場では、「自分は戦犯ではない、歴史がそれを証明する」と刑吏に語り御苦労だった! といって悠然と世を去って行ったということである。

 張春根さんが北平のたみえ夫人にとどけた、罫紙3枚の遺書と最後の写真とは、たみえ夫人の胸にしっかりとだかれているが、夫人は「主人が刑場で遺書をかきおわってから、春根はまだ来ぬか、まだか……と待ちつづけて、ついに銃殺の時刻に、間にあわず、飛びこんだ時はこときれていた。この春根の主人につくしてくれた話を、日本の人に書いて知らせて下さい」とせきこむようにいっていた。

©iStock.com

 春根さんというのは殷氏の運転手で、通州事件で、彼の主人が苦境にたった折も、とうてい人には出来ぬ働きをしている。

 殷氏の遺骸を、自分の手で葬むるまで、30年のながい間、忠勤をはげんだこのひたむきな人も、中共が入ってきてからは、戦犯につくしたと云うかどで、激しい追求の眼にたえきれず、とうとう狂い、同じ南京で自殺をとげた。悲惨な話である。これも通州事件余話の一つ。いつの時代でも、恐しいのは狂った政策である。

 通州事件も、大きく見れば、当時の日本がたどった、中国の気持や立場を、まったく思いやらない、不明な政策と強硬方針がわざわいした犠牲の一つである。

※記事の内容がわかりやすいように、一部のものについては改題しています。

※表記については原則として原文のままとしましたが、読みやすさを考え、旧字・旧かなは改めました。
※掲載された著作について再掲載許諾の確認をすべく精力を傾けましたが、どうしても著作権継承者やその転居先がわからないものがありました。お気づきの方は、編集部までお申し出ください。

無残……日本人虐殺の「通州事件」はなぜ起こってしまったのか?――生き残った記者が激白する地獄の現場

X(旧Twitter)をフォローして最新記事をいち早く読もう

文藝春秋をフォロー