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特集74年、あの戦争を語り継ぐ

『日本のいちばん長い日』著者の半藤一利は、あの「8月15日」をどう過ごしたのか?

戦後74年――いま語られる“半藤少年”の「戦争体験」 #3

2019/08/15

疎開先でアメリカ機の機銃掃射を受ける

 私はそれからしばらくして、母の故郷の茨城県の下妻に疎開しました。七中から下妻中学への疎開で、やはり勤労動員で働いたのです。

 そのときの記憶で決して忘れられないのは、あるとき敵の戦闘機の機銃掃射を受けたことですね。

 あれは叔父と朝早く起きて、小貝川にかけておいた網を引き揚げにいった早朝でした。獲物を持って土手を歩いていると、P51という硫黄島から来た戦闘機が2機、私たちの横を飛んでくるのが見えました。

 

「あれ、敵機だよね」

 と、叔父に言った途端、それがくるりと進路を変えて、こっちを向いたんです。「あれ?」と思ったときはもう遅かった。「あっ!!」と思った瞬間、相手は本当に機銃を撃ってきたんです。

ニヤリと笑うアメリカ兵の顔が見えた

 敵の戦闘機というのは、真正面から向かってくるとまん丸に見える。だから、少しでも機体の側面が見える時はいいけれど、まん丸に見えたら右か左に転げて逃げろ、と私たちは教わっていました。それで叔父は土手の上から下へ転げ落ちていきましたが、私は転げ落ちることができず、腰を抜かしてしまった。その横20センチのあたりをパッパッと弾が飛んできたのですが、よくぞ当たらなかったと思います。

 本当に怖かった。私は東京大空襲のとき、死んでいてもおかしくない体験をしました。しかし、そのときのB29はいくら低空飛行をしていると言っても、操縦席までは見えなかったわけです。ところが向かってくる戦闘機にはアメリカ兵のニヤリと笑う顔がはっきりと見えました。私はあのときほど、アメリカ兵が憎らしいと思ったことはありません。

 

長岡市で迎えた「8月15日」

 さて、そのような体験をした下妻をさらに離れ、私は終戦の日を父の実家のある新潟県長岡市で迎えました。

 8月15日の朝、家を出ようとするとき、「今日はお昼に重大発表があるから聞くように」と言われました。それでいつものように汽車に乗って北長岡にある津上製作所へ働きに行ったわけです。

 11時55分くらいまで働いていたでしょうか。工場に「全員作業やめ!」というアナウンスが流れました。これから正午に社内放送でラジオを流すので、その場で直立して聞くように、ということでした。