先日、ある雑誌の取材で広岡達朗氏に初めて会った。1978(昭和53)年、ヤクルトスワローズをセ・リーグ優勝、そして日本一に導いた名将である。87歳の現在も、専門誌など複数の媒体に連載を持ち、球界にさまざまな提言を行っている広岡さん。歯に衣着せぬ発言は辛辣であり、非情であり、ときに冷酷でもある。「管理野球」で名を馳せ、弱小チームだったヤクルトを、そして後には創設間もない西武ライオンズを優勝に導いた名将との対面。僕にとっては緊張感あふれるロングインタビューとなった。
球団史上初の「生え抜きの厳しい優勝監督」候補として……
さて、これまでヤクルトは7度のリーグ優勝を経験し、そのうち日本一には5回輝いており、チーム史上4人の「優勝監督」がいる。最初が78年の広岡達朗。次が1992(平成4)、93、95、97年の野村克也。さらに、21世紀最初の年である2001年が若松勉。そして、記憶に新しい、直近の歓喜の瞬間が15年の真中満だ。僕はこれまで、ノムさん、若松さん、真中さんには何度もお話を聞いてきたが、今回初めて広岡さんへのインタビューが実現したことで、「ヤクルト優勝監督の系譜」が完成した。ぜひ、いつか彼らの言葉を丁寧に掬い上げながらこの物語を書きたいと思う。
この4人を大雑把に分類してみると、「外部招聘の厳しい監督」と「生え抜きの優しい監督」に大別されることに気がつくはずだ。広岡さん、野村さんはともに、選手としてはスワローズに在籍していなかったものの、一般的に「ファミリー体質」と呼ばれるヤクルトに「厳しさ」を注入するために招聘されて結果を残した。一方、「背番号《1》は優しさでできている」としか言いようのない若松さん。そして、選手の自主性を尊重してのびのびとプレーさせて優勝した真中さんは、いずれもヤクルトひと筋で現役を終え、その後も二軍監督を経て、一軍監督に就任。まさにファミリー。チームカラーを体現したような野球人生を送った。
「広岡と野村」、そして「若松と真中」――。両極端なタイプの指揮官たちがヤクルトファンに至福のときをプレゼントしてくれたのである。しかし、今年50周年を迎えた「ヤクルト史」を振り返ってみたときに、前身の国鉄、サンケイ時代を含めて、このチームには「生え抜きの厳しい優勝監督」が、いまだ存在しないことに、すぐに気がつくだろう。2年前の文春野球でも書いたけれど、球団史上初の「生え抜きの厳しい優勝監督」の第一候補こそ、宮本慎也ヘッドコーチをおいて他にはいない。たった2年前、17年の秋、僕はそう思っていた――。
実力に裏打ちされた厳しいキャプテンシー
現役時代から、宮本慎也が好きだった。自分と同じ70年生まれであるという以前に、まずは彼の守備に魅了された。華麗な足さばき、球際の強さ、堅実でありながら流れるようなスローイングは本当に美しかった。大学、社会人を経て95年に彼がヤクルトに入団してきたとき、「本当に守備のうまい選手が入ってきた」とほれぼれしたものだ。正直言えば、バッティングに対して、当時の印象は残っていない。まさか、後に現役通算2133安打を放ち、名球会入りするとは微塵も考えていなかった。このときは完全に「守備の人」だったのだ。
ルーキーイヤーから出場を重ね、97年の日本一達成の頃にはすでにショートのレギュラーをつかんでおり、この年にはゴールデングラブ賞を受賞した。結局、彼はショートで6回、サードで4回、計10回も同賞を獲得することになる。かつて、彼の応援歌で謳われていた「どんな打球でも逸らさない・慎也のショートは日本一」という歌詞は、目の前の現実を描写したドキュメンタリー表現なのである。
野村監督から、打撃面については「専守防衛だけの自衛隊」と揶揄されたこともあったが、一方では「一流の脇役になれ」との言葉を贈られ、まずは「バントの名手」となり、次に進塁打を打つべく「右打ちの名人」となり、最終的には史上初の「2000安打・400犠打達成者」となったのである。
さらに、特筆すべきはそのキャプテンシーだ。ヤクルトチーム内ではもちろん、04年のアテネ五輪、08年の北京五輪ではキャプテンを務めた。WBCでもチームのためのサポート役を献身的に演じた。日本プロ野球選手会の会長も任されていたし、ベテランになってからは「将来の監督候補」として、選手兼任コーチも経験した。13年限りで現役を引退した後も、経験に裏打ちされた野球観を披露する辛口の評論家としても活躍した。
僕が、彼に魅了されるのはこのキャプテンシーだ。ずっと、「彼には嫌われる勇気がある」と思っていた。以前、本人にそのことを告げると、「いやいや、僕だって嫌われたくないですよ」と苦笑いを浮かべつつ続けた。
「……でも、誰かが言わなければならないことは必ずある。プロとしてやらなければならないことは必ずある。それは言わなくちゃいけないし、やらなくちゃいけない。そんな思いはずっと持ち続けていたように思います」
同い年でありながら、背負っているものが違いすぎる……。そもそも、名球会プレイヤーと自分を比較すること自体がおこがましいのだけれど、僕は自分の無力さを痛感するとともに、改めて同い年の英雄に対しての敬意を強くしたのだった。