アメリカのトランプ大統領は先月就任してまもなく、イスラム圏7カ国からの難民・移民の入国を制限する大統領令を発した。同政権による不法移民対策の最初の一手だが、これに対して連邦地裁が差し止め命令を出したかと思えば、さらにそれに政権が上訴、この上訴について連邦高裁は地裁命令を支持、とまだ予断を許さない状況にある。
アメリカは移民によってつくられた国とはいえ、歴史をひもとけば、移民排斥の動きもたびたび起こってきた。いまから110年前のきょう、1907年2月16日に米連邦議会上院で可決された移民法改正案には、日本人移民の制限を目的とする条項が盛りこまれていた。法案は18日に下院でも可決されたあと、20日、時の大統領セオドア・ルーズヴェルトの署名を経て成立する。
日本人がカナダへなだれ込み、新たな火種を生んだ
この背景には、前年の1906年にサンフランシスコで起こった学童隔離問題があった。これはサンフランシスコの教育委員会が、市内の公立学校に通う日本人の学童を隔離し、中国人と同じ東洋人学校に移すという決議案を採択したことに端を発する。
学童隔離問題は、連邦政府とカリフォルニア州政府の対立、また日米間の外交問題にまで発展する。ルーズヴェルト大統領は2度の教書を通じて、サンフランシスコ市の日本人学童に対する差別的な扱いを批判。だが当地ではかねてより、主に就労を目的とする日本人移民の増加に、白人労働者層が脅威を感じ、排斥運動が高まっていた。そのため大統領の申し入れも猛反発を受ける。
あくまで強硬なカリフォルニア州・サンフランシスコ市側を説得するには、連邦政府が日本人移民を制限する方法を具体的に打ち出す以外になかった。こうして当時審議中であった移民法改正案に、ハワイ、カナダ、メキシコなどへの旅券を持つ日本人のアメリカ本土への入国を禁止する条項が盛りこまれる。このころ大半の日本人はこれらの地域を経由して米本土に転航していたため、その流れを止めることで移民の減少を図ったのだ。移民法改正とあわせて、ルーズヴェルトは同様の主旨の行政命令を発し、3月14日より実施される。
これら一連の対策により、学童隔離問題は一応の解決を見た。だが移民法の改正は新たな問題を引き起こす。ハワイを経由して米本土に転航しようとしていた日本人移民が、第二の転航先としてカナダに大挙して渡ったのだ。バンクーバーでは、市民が日本人や中国人を襲撃する事件も起こる。こうしたこともあり、翌08年には日米両国のあいだで、出稼ぎ賃金労働者の移民を事実上禁じた「日米紳士協約」が結ばれた。さらに時代を下り、1924年には日本からの移民が全面的に禁止され、移民の国別割当制を導入した新移民法も成立する。ここから転じて、すべての外国人の平等な受け入れを原則とする現行の移民法が成立するには、第二次大戦後の1965年まで待たねばならない。
※本記事の執筆にあたっては、若槻泰雄『排日の歴史』(中公新書)、村山裕三『アメリカに生きた日本人移民』(東洋経済新報社)、水谷憲一「1907年移民法における『日本人移民問題』―連邦議会の審議を中心に―」(『同志社アメリカ研究』36号)を参照しました。