80年前のきょう、1937年2月17日の正午すぎから午後2時すぎまでのあいだに、東京都心の国会議事堂前、宮城(皇居)前広場、警視庁玄関、元外務次官官邸前、内務省の各所で、羽織袴姿の5人の青年が「死のう!」と叫びながら割腹自殺をはかった。彼らは「死のう団」と呼ばれる団体のメンバーで、いずれも未遂に終わる。
死のう団の正式名称は「日蓮会殉教衆青年党」。その母体となる「日蓮会」は1928年に江川桜堂という青年により結成され、既成宗教の退廃を厳しく批判、最盛期には約500人の信者がいたという。
1933年夏には、江川ら死のう団の28名が日本全国を説法してまわる旅「殉教千里行」に出る。「死のう」とは、法華経でいう不惜身命(仏道修行のため身体と命を惜しまないこと)の意を簡潔に伝える彼らの合言葉だった。だが、旅の途中、一行を怪しんだ住民の通報で逮捕される。このとき反体制運動や思想犯を取り締まる特別高等警察(特高)から、拷問を含む厳しい取調べを受けた。
結局、「特高の誤認」として全員が釈放されたものの、このあと団員は激減、ついには10数名を残すのみとなった。ここから警察の弾圧に対する抗議として江川が企図したのが、帝都中枢における切腹の“デモンストレーション”だった。じつは切腹をはかった青年はみな、死なないように刀を細工していたのである。これは、本当に自殺者を出せば、残された団員が自殺幇助や教唆の罪に問われてしまうとの懸念による。死のう団には「法治国の日本に生まれたわれわれが、わが祖国のために死のうといいながら、国法に従わないということは間違っている」という認識があった(作品社編集部編『読本 犯罪の昭和史1』作品社)。切腹事件でも団員が特高に連行されたとはいえ、このときも不問に付され釈放されている。
なお、江川桜堂は翌38年に結核のため34歳で死去、これと前後して5人の団員が殉死している。死のう団による一連の事件は、大本教など宗教団体に対し国家による弾圧が続くさなかのできごとであった。