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水没した戸田球場を前に、考えたこと、感じたこと

文春野球コラム クライマックス・シリーズ2019

2019/10/14

水没した戸田球場を前に、言葉を失う……

 それは、我が目を疑う光景だった。事前にツイッター上に挙げられていた画像は見ていた。当日の朝に更新されたつば九郎のブログ『つば九郎ひと言日記』の「いちやあけて。」も読んでいた。それでも、「信じたくない」の思いが強かった。「何かの間違いではないのか?」「誤報であってほしい」と思いたかった。1999(平成11)年にも同様のことがあったが、そのときは報道でしか見ていなかったので、僕にはリアリティはなかった。

 しかし、目の前に広がる光景を見ていると、「確かに戸田グラウンドは水没したのだ」という現実を受け入れざるを得なかった。いつもの見慣れた光景はどこにもなく、言葉を失うしかなかった。伊藤智仁のラスト登板の舞台となった戸田球場。宮本慎也が自費を投じて作った通称「宮本フェンス」。今年限りで引退した三輪正義が何度も何度もバント練習をしていたサブグラウンド。いずれもかつての光景ではなく、見るも無残に泥水の中に沈んでいた。

 ツイッター情報によると、この日の午前中に今季までファーム監督だった高津臣吾新監督や衣笠剛社長も、早々に現場視察に訪れたという。彼らはどんな思いで、この残酷な光景を見つめたのだろうか? 歴代ヤクルト戦士、そして現役のヤクルト選手たちにとって、それぞれにそれぞれの思いを抱いたことだろう。悔しさ、寂しさ、無念さ、無力さ、怖さ……、僕の何十倍も、何百倍も、複雑な感情が渦巻いていたに違いない。

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 台風一過で大空には真っ白な雲が浮かんでいる。10月も中旬になったというのに、真夏のような暑さだった。手元の携帯で気温を確認すると、「27°」と表示されている。本来ならばのんびりとした休日、秋晴れの一日。しかし、目の前に広がる受け入れがたい現実。昨日まで普通に存在していたものが、一夜にして消失してしまう残酷な現実。大自然の前では人類はいかに無力なのかということを痛感させられた瞬間だった――。

水没した戸田グラウンド ©長谷川晶一

戸田球場に隣接する彩湖の治水機能と利水機能

 しばらくの間、あてどなく球場周辺土手を歩き続ける。台風の余波なのか、風は依然として強い。風に乗ってときおり異臭が鼻を突く。それは対流のない真夏のどぶ川のようなにおいだった。さまざまな感情に支配されながら、さまざまな思い出がよみがえる。と同時に、ふと気づいた。自分が戸田球場のことを何も知らないことに。手元のスマホで「戸田球場」と検索すると、すぐにウィキペディアの「ヤクルト戸田球場」にヒットする。

 ウィキによれば、元々は社員の福利厚生用としてヤクルト本社が借用していた河川敷のグラウンドをファーム施設として使用するようになったのが77(昭和52)年のことだという。僕が物心ついたときには、ヤクルトの若手選手やリハビリに励んでいたスター選手たちは戸田で汗を流していた。後に大人になってからも、ヤクルト選手の取材は戸田寮で行われることが多く、試合のある日にはしばしば土手から観戦したものだった。

 僕はそのまま戸田市内の図書館に向かった。もちろん、「戸田球場」について調べると同時に、今回の惨事を招いた荒川のことを知るためだ。この図書館の一角にひっそりとある「郷土史コーナー」で目についたのが荒川についての本や資料だった。

 国土交通省関東地方整備局荒川上流河川事務所が編集した『荒川彩湖物語』によると、古来より荒川は「荒ぶる川」と呼ばれ、幾度となく甚大な水害を起こしてきた一方で、「母なる川」として豊かな水で地元住民たちの生活を支えてきたのだという。他の資料を見ても、江戸時代から何度も荒川は洪水を引き起こしており、治水工事は江戸時代から明治、大正、昭和、そして平成と途切れることなく行われてきていた。

 この資料によれば、戸田グラウンドがある一帯は「荒川第一調節池」と呼ばれ、洪水が下流域にあふれないよう一時的に水を貯めて洪水を調節する治水機能と、渇水時に近隣する彩湖に貯えた水を取水用に供給する利水機能を兼ね備えているのだという。つまりこの一帯は、洪水の際には一時的に水を貯めることで周辺住民への被害を食い止めるという役割を最初から与えられていたのだ。こうして、気象庁が「命を守る行動を」と訴え続けた今回の台風19号から多くの人々を救ったのだった。

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