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いや、理由があるから好きなんじゃなく、好きだからいくつでも理由が見つかるのか?

 愛していないわけがない。自分の権利を消し、ここぞでチカラを出せる男が、「愛ゆえ」でないはずがない。それはわかるのに、僕はずっと「愛される理由」を探してしまっていました。何か特別な理由がなければいけないかのように思っていました。特別な理由もなく愛されるはずがないと考え込んでしまっていました。

 しかし、2019年パ・リーグ優勝の翌日にサンケイスポーツによせた栗山さんの手記を見て、心を縛り付けるものがふいにほどけていくかのように感じました。栗山さんはこう言っていました。「ライオンズ愛のようなものが芽生えたのは、プロで初めて優勝した2008年かな」「パレードで喜びを知って『もう一度優勝したい。この球場でやりたい』と思った」と。そこには特別なエピソードも意味付けもなく、ありふれた、懐かしくて素晴らしい思い出があるだけでした。

 なんだ、普通じゃないか。

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 勝って、好きになっちゃっただけじゃないか。

 それって僕らファンと何も変わらないじゃないか。

 ただのライオンズファンじゃないか。

 僕らファンがひとつの球団にほれ込むことに大した理由などありません。近所だったとか、イケメンがいたとか、たまたま試合を見たとか、タオルをもらったとか、どうでもいいところから芽生えた愛が理由さえわからないままに大きく育つだけです。栗山巧のライオンズ愛にも特別な理由なんて探さなくていいんだと、今になってやっと思いました。始まりは何でもない小さなきっかけで、「好きになっちゃった」から全部がどうしようもなく愛おしくなる……ファンと同じ順番でこの愛は育ったんだと。

 ならば、勝つことを恐れる必要はないと思いました。

 多くの名選手が、勝利を置き土産に球団を去っていきました。それは西武だけではなく、ほかの球団でもそうです。優勝や日本一を置き土産に、「ここでやることはもうない」と羽ばたいていくスターたち。そんな姿を思いながら、日本一にでもなったらスッキリとやり終えた顔で、また選手たちが出て行くのだろうかと不安になりました。

 そうじゃないんだ、逆なんだ。旅立つことを決めた人にやり残しなんてあるはずもなく、置き土産は名残惜しさを振り払うための理屈でしかないんだ。栗山巧がそうであったように、勝ったことでここに残りつづけるほどの愛が芽生える選手だっているんだ。むしろ、そこで見た特別な光景こそが、愛を育て、心を変えるかもしれないチャンスなんだと思いました。

 勝たなければこれまでと一緒だけれど、勝てば何かが変わるかもしれない。

 日本一になった景色を見たら、そこで喜ぶ人の顔を見たら、金や環境、夢さえも抑えて、愛が勝つことだってあるかもしれないじゃないか。栗山さんがそうだったように、ほかの選手にも同じことが起きるかもしれないじゃないか。秋山翔吾に日本一を見せたい。十亀剣にも日本一を見せたい。森友哉にも山川穂高にも日本一を見せておきたい。もう一度それを見たくなるような景色を。まだ見たことがない頂点からの景色を。

 そして、その光景は「最初の球団」でしか見られない、一度も敵味方に分かれたことがない人たちだけとしか作れない、この先の世界のどこにもないものなんだよと気づいてもらえたら……。もしかしたら、その光景が未来さえ変えるかもしれないと切ない祈りを込めて、勝ちたいと強く思うのです。決まったはずの心を揺り動かすかもしれないと一縷の望みを込めて、勝ちたいと深く願うのです。

 勝つことで芽生え、育つ「愛」もあるのだから。

 この10年あまりなかったけれど、ごく普通に、たくさんのファンが生まれるきっかけとして、日本一はあるのだから。お金をもらうどころか払うようになり、古さが思い出の多さに変わり、虫だけじゃなく野鳥の存在を身近に感じたり、スタンドと屋根の間からのぞく満開の桜に遅い春を感じたりするように、全部が「理由」になってどこもかしこもが「好き」になってしまうことが、起きたりするかもしれないのだから。選手にだって。普通に。

いざCSだ、日本シリーズだ。日本一で今こそライオンズの未来を生み出そう。

 今日から始まるクライマックスシリーズファイナルステージ。最後に日本一となった2008年以来、西武は日本シリーズに進出していません。過去10年、日本シリーズに一度も出なかったのは西武とオリックスだけ。10年ぶりにパ・リーグを制した2018年も、クライマックスシリーズでソフトバンクに敗れ、日本シリーズ・日本一には手が届きませんでした。ソフトバンクは強く、立派な、球界の盟主です。「日本一」を阻まれるのも仕方ないと思いました。負けて納得、でした。

 ただ、今季は西武が勝ってもいいと思うのです。

 胸を張って日本一を名乗れる年だと思うのです。

 菊池雄星、浅村栄斗、炭谷銀仁朗と攻守の要たる選手たちが一挙に抜けてもなお、連覇する地力を見せた今年。いよいよ環境整備に手をつけ、新たな選手寮と室内練習場が完成した今年。2005年の実数発表開始以降では最多となる観客動員数を5年連続で更新し、21世紀では球団初となる観客動員180万人台に乗せた今年。我慢と倹約の時代を終え、新・黄金時代を宣言する準備はできています。今年より来年のほうがもっとよくなるという期待が持てます。あとはもう本当に勝つだけです。日本一になれば新・黄金時代の幕開けだと言える。勝つべくして勝ったと胸を張れる。

 胸で流れるのは栗山さんの応援歌。

 その歌詞は「勝利に向かって 進め今こそ 生み出せチャンスを いざ栗山」というものです。僕はこの「いざ栗山」というフレーズに違和感を抱いていました。現代語としてしっくりこないな、と。言わんとすることはわかるけれど、ちょっと引っ掛かるな、と。「打て栗山」「行け栗山」なら自然だけれど、「いざ栗山」だと不思議な感じがするでしょう。「いざ」の後ろには人名よりも動詞や行為を入れたくなるじゃないですか。

 まるで「いざ鎌倉」みたいな言い方だな――

 ――そうか、「いざ鎌倉」みたいな「いざ栗山」なんだ。

「いざ栗山」で合ってるんだ、今はそう思います。ミスターレオである栗山巧を中心に、骨のまわりに肉が集まってできたチームが、決戦に臨む。キャプテンシー、精神的支柱、ミスターレオ。チームを鼓舞し、奮い立たせる中心地としての「栗山」。「いざ鎌倉」と駆けつける武士のように、栗山巧を中心地として仲間とファンが集まってくる……そんな栗山さんの人物像が、この歌詞を腹落ちさせてくれるのです。ずっとずっと昔から、いつかこの男がミスターレオと呼ばれる未来を、この「いざ栗山」が予言していたような気がして。

 西武日本一の光景を知る選手は、今や栗山巧さんと中村剛也さんを残すだけになりました。2008年に在籍していた選手はまだ何人か残っていますが、日本シリーズの出場資格者として「日本一」を見た選手は栗山さんと中村さんのふたりだけ。あとはみな、現役を終えるか、西武を去るかしました。でも、あの日本一があったから栗山巧はここにいる。あの日本一があったから、未来の見えない時代を超えて「ふたりも」残った。今はそう思えます。

 そんな光景を受け継いでいきたい。いつかふたりがいなくなっても、その素晴らしさを知る選手たちが、「あれをもう一度見たい」とチームを支えていってくれるように。このチームの骨や牙やミスターレオとなって、「好きだからここにいるんだよ」「理由なんか何でもいいんだよ」「心配するなんてバカだなぁ」と抱きしめてもらえるように。

 今年こそ日本シリーズへ、そして日本一へ。

 進め、今こそ。

 生み出せ、新たな未来を。

「いざ栗山」

 その時は今です。

見てほしい。見せてほしい。その光景を。もう一度。 ©文藝春秋

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