20年前のきょう、1997年2月19日の午後9時8分(北京時間)、トウ小平が死去した。1904年生まれの92歳。70年代後半以降、中国で実権をふるい、改革開放路線を推進した指導者の死は、日本をはじめ海外メディアでは翌20日未明には報じられたが、当の中国国民には同日午前9時まで知らされなかった(関川夏央『人間晩年図巻 1995-99年』岩波書店)。

「どんなによい猫でも、いちどに4匹のネズミはとれない」

 トウ小平にはさまざまな語録がある。たとえば、「白猫だろうが、黒猫だろうが、ネズミをとるのが、よい猫だ」という言葉はよく知られる。これは中国共産党の中央総書記だった1962年、毛沢東の政策の失敗で中国が深刻な食糧危機に直面した際、理念にこだわらずとも現実に見合った政策で克服すればよいとの考えから口にされた。

 しかし、トウ小平は毛沢東との溝を深め、やがて毛が文化大革命で巻き返すなか、68年にはすべての職を解任される。73年に中央委員として復帰するも、数年後に失脚。76年に毛沢東が死去し、文化大革命の中心だった毛夫人の江青ら「四人組」が逮捕されたときには「どんなによい猫でも、いちどに4匹のネズミはとれない。諸君、トウ小平批判を続けなさい」と言いつつ復権を期した。

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来日中のトウ小平(左)。右は土光敏夫 ©文藝春秋

新幹線に乗った感想は「ムチで打たれて、追いかけられているよう」

 彼の言葉にことあるごとにネズミが登場するのは、出身地の四川省がもともとネズミの害に悩む土地であったからだとの見方もある(竹内実「トウ小平訪日語録の研究」、『文藝春秋』1979年1月号)。「白猫だろうが~」の言葉もじつは四川省のことわざで、「白猫」ではなく「黄猫」とする資料もある。

 このあとトウ小平は77年にかつての地位すべてに復帰。78年には改革開放の方針が定まり、事実上のトウ小平時代が幕を開ける。この年10月、来日した彼は新幹線にも乗車し、その感想を訊かれ「うしろからムチで打たれて、追いかけられているような感じだ。わたしたちが、いま必要としているのは、速く走らなければならないということだ」と述べた。実際に、その後の中国は、彼の指導のもと、経済成長にひた走ることになる。